ハイデガー、20世紀最大の思想家と呼ばれる哲学者。その思想は今日でも広く影響を与えている。(村上春樹などもハイデガーと格闘した、とか言われてる)。その主著「存在と時間」はロングセラーとなっている。ただし、こいつはちょっと難しい。僕も以前原典を読もうとしたが、独特の表現に悩まされた。そこで今回「誰にもわかるハイデガー」を読んだ次第だ。簡潔にまとまっていて、非常に読みやすい。講演がもとだからだろうか。ハイデガー読みたいなら骨格を掴むのに良いと思われる。(ただし後半が蛇足)
以下、ハイデガーの理論について大まかに書いていく。(「誰にもわかるハイデガー」を基にして、「存在と時間」でハイデガーがいわんとしていたことを勝手に思い描いたに過ぎないので悪しからず…。)
存在と時間
ハイデガーは「存在と時間」において、最初に大きな問いを提示する。「存在するとは、どういうことか?」、自明すぎるがゆえに、最も難しく忘れられている問い。これが彼を二十世紀最大の思想家言わしめる理由だろう。
存在することと存在するものは違う。そして存在することを知るためには、価値判断を実際に行う僕たち自身を知ることが欠かせない、と続く。そしてここから人間の哲学へと向かっていく。(自分の内側へと向かうのは、フッサールの現象学の影響か?)
端的に言おう、ハイデガーの哲学は「死の哲学」だ。彼は、人間を「現存在」、つまり死という運命を引き受ける存在のしかたとして定義する。人間の本来性に据える。なぜなら、死は人間の宿命であり、他人に代替してもらうことも、避けることもできない、切り離せないものだからだ。そして僕たちは、平均的日常性・非本来的な生き方をしていると言う。それを彼は頽落(たいらく)と呼んだ。
僕たちが平均的日常性、平凡さのなかで生きている、というのはとても共感できる話だ。そして彼は、僕たちが平均的日常性、平凡さに埋もれているのは、死から目を背けるためだと言う。
そのために僕たちは「気遣い」をする(独自の用語なので注意)。周囲の人や、道具を気にかけて大事にしたり、場合によっては捨てたりするのだが、これは結局自分を気遣うということに回収される。周囲を意識しているようで、僕たちの意識は気づかれないうちに明日の生、その後も続く生へと向かっている。(ここで思い出すのは「正欲」という小説の冒頭だ。あらゆる看板、街中で見られる情報、記号は全て、生きることに焦点が向けられている。そんな事が書かれていた気がする。)
「世人」というのもでてくる。これは華族だったり友人だったり、僕たちを平凡さに繋ぎ止める役割を果たす人だ。そうした人々と、わかりきったことを確認しあうだけのような営みを続けている。これは「非本来的」なことなのだ。なぜならそれらは全て、人間の本来性・宿命としての死から意識を逸らすための行いにすぎないからだ。そしてそんな風にして生きる人々を「ダスマン(=ただの人)」とハイデガーは呼んだ。結局死ぬときは一人で死ななければならない。寄って集って騒ごうとも「ああ僕たちは皆死ぬんだ」という孤独な思いは消えない。
ハイデガーは後者を本来的なあり方だと言う。そして死に先駆せよと言う。死の先駆とは、死に先駆けて、自らの死を実感することらしい。自らの死は、他人の死を見て「ああ、僕もこうなるんだ」となることとはまた違う。あくまで自分のものとして、全て失うことを意識しなければならない。
そんなことが果たしてできるのか?Yes。その証として、不安という現象が挙げられる。不安は恐れとは違う。分類の定義上、対象を持たないのである。なぜ対象を持たないのかというと、それは漠然とした死ぬことへの畏怖、すなわち自分の内側へと向けられる恐れだからである。この感情が僕たちを平均的日常性から本来的な生へと呼び戻すものなのだ。
そうして僕たちが、死に先駆して了解するとき、同時に過去をも正しく知ることとなる(?)。死を知ることで「もっと〜できたのではないか」と逆算して責めることなのだろう。そして自分の過去を清算・肯定し、自分がどう生きるべきか、を了解するのだ。
人は常に無限の可能性を持つ。そうした開かれた可能性があることを「未了」と呼ぶ。その可能性にはもちろん、死ぬ可能性も含まれている。死はいつやって来るかわからず、他の全てのカードを捨てさせる特異的な手札だ。死ぬ間際にも僕たちはまだ未了である。結局、人間は全ての可能性を実現することなんてできやしない。その意味で僕たちは不完全な存在である。死をもって終わるわけではないのかもしれない。そうして不完全な僕たちには、タイムリミットがあることで良心、倫理性が生まれる。「こうできたかもしれない」という排除された可能性を背負うことが、死の先駆の成果だと僕は思う。
まとめよう。僕たちはすでに存在するものとして、世界に投げ込まれている。存在することを知るためには人間について知らなければならない。人間は、現存在として、宿命的に死を抱えている。その死から目を背けているのが、僕たちの日常的なあり方だ。しかし不安をきっかけにして、ふと本来性に立ち返ることがある。僕たちに死を先駆けて知る可能性がもたらされる。そのとき、僕たちは絶対に来る未来を見て、過去を顧み、現在に戻ってくる。どのように生きるべきか、という了解も添えて。そこに倫理が生まれ、良心が宿る。こうして僕たちには正しい選択の可能性が開かれる。
そうして時間の流れで人というあり方を捉えるからこそ、「存在と時間」なのだ。
(上手くまとまったああ!)
このようにしてつらつらと書いてきたわけだが、実は彼の主著である「存在と時間」は完成していない。未了だ。行き詰まったからとも言われている。ちょくちょく、流れが変だなーと思うところもある。そこは盲目的にハイデガーを信じるのではなく、自分で改変して読んでみるのもいいかもしれない。(研究者は激怒するだろうけど)。ハイデガーに関しては功罪がある。彼はナチスに入党していた。正しい選択、運命という思想は、民族的な偏りを生んだらしい。知らんけど。
だからどこか宗教的なうさんくささはあるかもしれない。でも、書物としての価値は消えない。特に死や不安というものに怯える人に、それが本来的なあり方なのだと手を差し伸べるところは、勇気を与えるものだろう。だからこそ第一次世界大戦と第二時の間の戦間期で大ヒットし、戦時中の兵士にも愛読されたのかもしれない。
僕は人間の本質は死にある、という考えに違和感を覚えた。でもよくよく考えたらやっぱそうなのかもしれない。というのも、僕は将来旅をしたいと思ってる。これは人生を1回きりのものとして、繰り返しの生活ではなく、ドラマチックにいきたいという欲だ。1回きりの人生、突き詰めれば、最後に死ぬことが人生の本来性なのかもしれない。だからといって毎日の暮らしを非本来的なものとして疎かにしていいわけではないが。将来の終わりを見据えれば、後悔しない選択ができる。平たい言い方だけど、これがハイデガーの言いたかったことなのかも。
ハイデガーと言うと、不安の他に退屈についても考察している。「暇と退屈の倫理学」にもハイデガーが出てくるが、これは物凄くおもしろかった。「暇倫」、おすすめである。死を通して、生命や決断を肯定してくれるからこそ、存在と時間は長い時間を経ても刺さる書物なのかもしれない。
…最後にもう一度言おう。本家を読んだことは、ない。
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