「現代思想って今じゃないんだ」、まず最初にそう思った。
今回は「現代思想入門」という本の感想です。
現代思想を一言で定義するなら、「差異の哲学」でしょう。既にある秩序からズレていく方向づけ、逸脱、撹乱。今まで劣っているとみなされてきたものを、脱構築という手法を用いて、価値観を転覆させていく。それが現代思想の本質なんです。
現代思想は実は、古い。20世紀のもので、古くなりつつある。でも、既成の価値観に「それっておかしくない?」とヒビを入れるために有効な思想です。「現代思想入門」ではおもに、デリダ・ドゥルーズ・フーコーという人達3人を中心に論じています。今回はその3人について思ったことのまとめということで。
ではさっそく。
デリダ、ドゥルーズ、フーコー
まずは1人目、デリダから。「脱構築」という考え方を主張した人です。
脱構築とは、なにか。脱構築とはすでにある価値判断を保留させる方法です。
僕たちはよく、二項対立という思考法を使います。「A vs A以外」という構図。例えば、善vs悪、男vs女、大人vs子供、などなど。僕たちはそのような図式におとしこんで、優劣をつけてしまいがちです。
そういうすでにある価値観に、「これっておかしいんじゃない?」と疑問をなげかけるのが、脱構築。
脱構築はなにをするのかと言いますと、まず弱い者の味方をする。そしてどっちも大事だよね、という段階までもっていく。勝ち負けをつけさせない。
たとえば、教科書に載っている「男の絆、女たちの沈黙」について考えてみましょう。これをチャート的に整理すると、
男=支配的=論理的、女=被支配的=感覚的、ということになります。そのなかで筆者は「論理的>感覚的、男の価値観>女の価値観っていうのはおかしいよね」、と論を進めていきます。まず最初に弱い意見を擁護する、次いで優劣はないと主張する。これが脱構築なのです。
脱構築のすごいところは、それが考え方である、という点です。方法であるからこそ、いろんなものに応用できる。一見決着のつかなさそうな議論にこそ、応用したいですね。
僕が脱構築のところでおもしろいなと思ったのが、エクリチュールとパロールの二項対立です。あらゆるものはこの対立に落とし込まれる。エクリチュール=間接的なもの=非自然的・人工的なもののほうが劣っていて、パロール=直接的なもの=自然的なもののほうが、あるべき姿として優れていると判断される。これはいろんなところに見出されますね。
次いで2人目、ドゥルーズ。ドゥルーズは存在の脱構築を行った人です。
彼は世界は差異でできている、と主張しました。これは同一性vs差異の二項対立を脱構築した結果です。なにか、普遍的なものが存在するわけじゃない。あらゆるものは移ろいゆき、つねに生成変化の途中である、と。世界を時間のなかでとらえたわけです。(ここらへん無常の考え方に似ていますね…)
そして彼は「リゾーム」という概念を示しました。リゾームとは、横方向の広いつながりのこと。いわく、独立に存在するようにみえるものも実はすべてつながっているのだ、と。そのつながりのバランスの変化、いわば差異が、存在をつくるのです。だから確固たる実在はない。いろんなものは、現象である。
そして彼はリゾームのつながりにおいては、切断も重視しました。いろんなものをつなげすぎると、すべてに責任を負う必要がある。息苦しい。だから、つながりとともに切断も重要なのです。ネットワークを組み替えていくことで、自由を模索し、とりあえずの安定を手に入れよう。
こうした存在の脱構築が、ドゥルーズのしたことです。(僕自身もまだ理解の途中です。正しい確証は、ないです。ごめんなさい)
生成変化・確固たる自分は存在しない、といったことで個人的に生物学の「動的平衡」を思い出しました。すべての細胞(それこそ脳細胞も、脂肪も)は新陳代謝をくりかえし、生物は常に物質の流れのなかで生きています。生物は、端的に言って、同じ形を保ち続けるダイナミックな流れである。生物は現象である、云々。なんか似てますね、生成変化と。
3人目、フーコー。フーコーは脱構築を社会に対して適用しました。具体的には、権力や統治についてです。
まず権力の脱構築。権力が、上vs下だというのは、おかしい。なぜなら、権力は上が下を支配することだけで成り立っているのではないから。実は、支配されている側も、それを支持しているのです。
だから、権力=悪ととらえて、それに抵抗しようというのは浅はかなのです。そもそも権力とは広いネットワークでのパワーバランスの総合であって、ひとまとまりに「こいつらが悪い」とくくれるような実体がないから。そして権力=巨悪とたたかっているつもりでも、実際は小権力をうみだしているなんてこともある。だから、支配者/被支配者という統治システムから逃げるのはむずかしいのです。
そして彼は「狂気の歴史」において、正常vs異常の脱構築をおこないました。
実は、健常者と異常者には明確なラインがあるわけではないんです。つまり、いつだって社会のマジョリティが自身を「正常」とし、マイノリティが「異常」とされてきただけ。そうして「おかしな人」を社会から排除することで、自分たちのいるスペースを、異物のすくないクリーンな状態に保つというのが近代化なんだと主張しました。おかしい人を治療するのは統治のためであって、権力は強まっていく。
なるほどなぁ、と思いました。
病院も、刑務所も、老人ホームも、果ては「ちいさなお葬式」も、近代化(クリーン化)なのかもしれない。見たくないものを見なくてよくなった。それは、異常を排除する機能、統治システムの強まりとして考えられる。でも僕たちはいつまで、マジョリティでいられるのだろうか。僕たちが「ゴミ」になったら、排除される側になったら。(こんなことを考えるのも、今ちょうどカフカの「変身」を読んでいるからかも)。統治への警戒を忘れちゃいけないなぁ、と。
あと個人的におもしろかったのが、アイデンティティにまつわるお話。僕たちはアイデンティティ=個性、と良い意味でとらえがちです。しかし、アイデンティティというものがうまれたことによって、僕たちは無限の反省を強いられるようになった。アイデンティティとは結局、「私はこういう人間だ」という規定です。悪い行動をした=悪い人間、というのは、おかしい。行動をその都度反省するような、行き当たりばったりな生き方ができれば、ずっと生きやすくなるんだろうな、と感じました。
最後!
さて、今回は「現代思想入門」の核を為す3人について、感想を交えて紹介しました。最初にも述べた通り、現代思想というのは差異の哲学です。脱構築を駆使して、すでにある考えをぶっ壊す。この考え方を覚えるだけで、いろんなことにツッコミを入れられるようになります。(僕自身はまだ、覚えたての付け焼き刃みたいな状態ですが…)。
「現代思想入門」は非常に読みやすくておすすめです。僕、実は「構造と力」という現代思想の本を以前に買ったのですが、難しすぎてリタイア。でもなんとか理解したい、と思って読んだのがこの本でした。「何言ってんのコイツ」の状態が少し解消されて、うれしい。
あと、この本が画期的だなと思ったのが、最後の章の「現代思想のつくりかた」です。普通の本は、「読み解き方」の説明に終止していますが、「作る」という視点でまとめたところが着眼点としてとてもおもしろかった。今回は、実物を読む楽しみを損なわないように書いたつもりですが、そういった思想に興味のある人には、おすすめです。
では、グッド・バイ。
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