神に問う、信頼は罪なりや。 -『人間失格』太宰治

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生きていく。誰もが、人間である。欺きあいながら、愛と信頼を騙る。

ところで、人間とは、何ですか?

あらすじ

※今後読もうと思ってる人は要注意!青空文庫で読めます▶「人間失格」

自分には、およそ人間の実生活というものがわからない。不気味であるがゆえに、内心は恐れおののきながら、道化でごまかす。そのうち私は、上京し、悪友(堀木)とつるみ、酒と女遊びと非合法活動に染まっていく。堕落。厭気がさしたとき、私は自殺を決意する。そして自分と似た、孤独な女性と入水した。

未遂だった。自分だけ生き残った。人を不幸にしているのは、私だ。のち、私はある女性と結婚する。純粋で、人を疑うことを知らない女性。汚れなき美徳。それゆえに彼女は犯される。私には、もはや人間が信じられない。自殺をはかり、モルヒネ中毒になり、身近な人に裏切られてついには脳病院に監禁される。

「いま、自分には幸も不幸もありません。ただ一切は過ぎていくだけのように思われます。」残ったのは、廃人同然の男であった。

「人間失格」を読む

あらすじでもわかると思うが、読後感はかなり重い…。

「僕は、一瞬といえども狂ったことは無いんです。」個人的には、この言葉が一番響いた。いったい、何を間違えたのか。どうして廃人にならなければならなかったのか。

考えたこと。

まずは物語を少し整理したい。

僕たちの生きる目的とは、究極、生きることだ。生きるために生きている。あながち間違いじゃないだろう。

”私”には、その目的が本能として存在しない。それゆえに、目的-手段の連関に立ち入ることができない。平然とやってのける人間が不可解に映る。

実生活が、生きることの手段だとしたら、私に、それが合理化された『つましい』ものとして映ったのも無理は無い。

私が人間に恐怖した理由も、ここに帰着する。私は、人間の「裏切り」を恐れた。皆が欺きあうところの世間も恐れた。でもそれは普通の人にとっては大した裏切りでは無い。むしろ全ては、効率的に「生きる」という1つの目的につながっているという点で、一貫性をもっている。

生きるための合理性。生きることの合理性。それこそが私の恐れたエゴの状態ではないだろうか。

人間が、世間が信じられない。そんな私が信じたものはなんだったか。

信頼。神。疎外。その他、世間からとおいもの。

私が非合法活動も、心中を決意した女性も、どちらも社会のアウトサイダーとして私と同じであった。結婚した女は、信頼という類いまれなる美質を備えていた。信頼は、盲目的だ。打算じゃない、裏切らない。俗世間の超越者としての神、手垢のついた天国へのアンチテーゼ=地獄と罰。生からとおいもの。

信頼。それさえも私の妻が犯された時、私にはもはや信じられなくなる。そして私は、人間に希望を持てなくなるひとりのせかいにとじこもる。

モルヒネ中毒。もはや世間を必要としなくなった私は、人間=ポリス的動物の規定から完全に除外された。

ゆえの廃人。人間失格。そういうことじゃないか?

読んでいて1つ、気になったことがある。最後から3行目の、のこされた人が言った言葉。

「お父さんが悪いのですよ。」

なぜ、父なのか?

父が、世間の代表として私に映ったから、だと僕は思う。欺き合う人々の中心にいて、世間的に高い身分で、絶対的。

「なぜ天国へ行けないの?」「親の言いつけに背いたから。」

父が私に要求していたのは、官吏になることだった。レールに沿った生き方をしろ。それに真っ向から反する方向で、学校をサボるようになって自殺未遂なんてしたんだから、そりゃ縁も切られる。縁を切るのは、裏切りか?絶対的に正しい世間様を畏怖していた私は、生きるべき道を失ったと言わんばかりのことだったんじゃないか。

今、ひとつ、思いついた。この物語全体を世間(人間)と私の関係で捉えたらどうだ。①道化・世間にあわせる②「世間とはお前じゃないか」反感。世間への絶望③人間失格の烙印を押されるまで

感想

当然のことながら、人はひとりひとり違う。最近のトレンドなら「個性」とか「多様性」とか。それはそうとして、人の間にコミュニケーションが成り立つのってすごいことだなと、僕は思うわけです。

厳密に定義できるような言葉ならその限りじゃないかもしれない。だけど感覚を写し取ったような言葉なんかは、本当に伝えるのが難しい。スポーツをやったことのある人なら、誰でも経験があるんじゃないか?「こうしろ」と教わるけれど、感覚として理解ができない。できる人だけできちゃう、みたいな。フォームみたいな体の動きを真似するだけならともかく、力の使い方みたいのは感覚だから難しい。

言うまでもなく言語は不完全だ。「目の見えない人に赤色を説明しろ」。伝わらないことはある。

さてここまで急に言語の話なんかしちゃって僕は何を言いたいのでしょう?

各個人は単位で生まれて、いつまでもいつまでも永久に孤独だということだ。

実生活感覚の欠如は、その極限値だったが、それに類することは誰にだってある。完全に自分を開示することも、完全に他者を包含することもできない。それがコミュニケーションの難しいところ。

僕は、自分では共感能力が著しく低いと思っている。頭では、感情を理解できる。でもそれは上滑りしているようなもので、心で、人の感情を理解することはほとんどできない。そういう意味では、欠陥。別にそのことで孤独を感じたことはないけど、たんに独善的な人だというだけだ。

最近ではむしろ、コミュニケーションにおける「自分」が表面だけになってきているような感じがする。(今に始まったことでもないが)

ペルソナとシャドウ

コミュニケーションの表層で、演じる上っ面だけの顔と、それに抑圧される自分。この乖離。それも1つの孤独なのかもしれない。

あれ、なんの話だっけ。 “私”の孤独だった。

打算・合理性に対する信頼。のこされた人達が”私”を神様のようないい子と評したのは、孤独な、エゴイズムに反するような素朴さを持ち合わせていたからだったんじゃないか。

さて性急なまとめになったが、今回はこんなところで。

グッド・バイ

コメント 感想をください!

  1. 太宰治さんの「人間失格」はもう何回も通読しております!

    タイトルが「人間失格」なのに対して、「神様みたいな良い子でしたよ」で終わるのが、

    「神さまみたいにいい子でした」

    そして、その対義語が

    「人間失格」

    として最後まで対義語遊びをしている太宰のユーモアさを感じました。

    もうこの本は何回も読んでます!

    • 返信が遅くなってすみません。
      このコメントは一昨日、試験勉強の休憩中に読んだんですけど「すげぇぇ!」って思いました。3周も読んどきながら全く気づかなかった。完全に盲点でしたね。
      おかげさまで、また1つ、もっと作品を楽しめるようになりました。感謝感激雨アラレ

  2. 個人的に一番好きなシーンは、最後のシーン!

    廃人になった葉ちゃんが
    テツという老女中に
    「カルモチン(催眠剤)を買っておいで」
    とお願いしたものの、彼女が間違えて「ヘノモチン(下剤)」を買ってきて、それを飲んでしまって
    下痢になり、テツに小言を言おうとするシーンです。

    自分は仰向けに寝て、おなかに湯たんぽを載せながら、テツにこごとを言ってやろうと思いました。
    「これは、お前、カルモチンじゃない。ヘノモチン、という」
    と言いかけて、うふふふと笑ってしまいました。
    「廃人」は、どうやらこれは喜劇名詞のようです。眠ろうとして下剤を飲み、しかも、その下剤の名前は、ヘノモチン。(文章引用)

    喜劇の中に一つのトラ(悲劇)が
    潜んでいるように見えて大好きなシーンです。
    チャップリンの映画を観ているような感じで…

    その後の文章がもう…悲劇すぎて…

    • この場面は、
      ああ人間こうなっちゃうんだ、って。これが素直な感想でした。

      善悪、悲しみ喜び。そういったものがもう全部どうでもよくなっちゃったんだなって思うと、なんともやりきれない。苦悩しつくして、もはや苦悩することをやめちゃった感じがしました。

      廃人が喜劇名詞なら、人間は悲劇名詞なんでしょうかね

      • 「廃人が喜劇名詞なら、人間は悲劇名詞なんでしょうかね」

        めっちゃ深いな…印象に残った…

        太宰治さん関連の私の個人的な話なんですが、高校3年の冬休み期間に1人で太宰さんの臨終の地、三鷹に遊びに行きました。

        太宰治文学サロンも良かったし、
        松井商店というカフェ(前身は太宰さんの通ってたタバコ屋)の黒ビーフカレーセットと、シフォンケーキはとても美味しかったです!
        (このカフェのマスターのお婆様の家に、
        太宰治さんが良く訪問していたらしいです。
        大変貴重なお話でした。)

        カフェでお食事を堪能した後は、太宰さんのお墓がある「禅林寺」と言うお寺に立ち寄り、太宰さんにご挨拶をしてから帰宅しました。(森鴎外さんのお墓もあったので、鴎外さんにもご挨拶に伺いました。)

        楽しい太宰巡りの旅になりました。
        台風が過ぎたら、また三鷹に遊びに行く予定です。

        台風、お互い気をつけましょうね〜

        • 太宰巡りいいなぁ…。僕も行ってみよっかな。親戚が以前斜陽館に行ったことがあって、「あそこはよかった」ってよく言ってる。だから斜陽館も行ってみたいな、と。
          うらやましいです

          • 昨日、三鷹で太宰巡りに行ってきました♪
            珈琲店、松井商店、老朽化で建て壊しちゃうそうです。
            (でも、その隣のカフェ「故郷(ふるさと)で、営業は続けるようです。)

            玉川上水も回ってきました!
            とても楽しかったです!

            「斜陽館」良いですよね!
            わたしも、行ってみたいです!

          • うわ、まじかぁ。まだ営業してました?してるなら今月中に行きたいな…

  3. 返信遅れてすみません!
    9/6に三鷹へ行ったときは、まだ営業してました!でも、いつ閉まるかはわからないですね…
    マスターから「このカフェ建て壊しちゃうよ」とは聞いたんですけど…

    • ありがとうございます!!
      すみませんね、最近星陵祭(文化祭)があって、全然ブログの方見れておらず……

      • いえいえ!お気になさらず☺️
        文化祭良いですよね☺️
        いつもブログ楽しみにしています!

        昨日、自分、母親にXのアカウントを消すように言われてしまいました!
        でも、このブログでまた話したいです!

        • なんだ、そういうことだったんですね!!
          昨日Xでメッセージ送ろうと思ったら全然見つからなくって、どうしたんだろうと思ってました。家族にアカウント見られてて、消せって言われるのはきついですね。ブログ上で話せるならよかった…

          やはり、楽しみにされているってのはうれしいですね。今後もよろしくお願いします。

    • 行ってきました!太宰巡り、友達と

      今週の火曜日ですけど、三鷹美術館ギャラリーの太宰治展示室と、玉鹿石前と、お墓と、太宰治文学サロンと。あ、あと松井商店も。すごく雰囲気のいいところでした。文学サロンでは英訳版を読めて、結構おもしろかったです。

      今は斜陽と他の太宰作品を読み返してます。ちなみに僕の大好きな(というか太宰にハマるきっかけとなった)短編が、「畜犬談」というお話なのですが、おもしろいのでぜひ読んでみてくだざい!

      ほんなさんのおすすめもあったらぜひ教えてください!

      • おー!三鷹行ってきたんですね♪
        楽しめたみたいで良かったです!

        「畜犬談」良いですよね!
        犬にわざわざ小さく会釈する語り手(多分、太宰?)が面白い笑

        私のオススメは、太宰さんだったら
        「斜陽」、「人間失格」などの太宰文学は全てお気に入りですが、一番好きなのは「思い出」ですね!

        幼少期の太宰治の回想を小説にしたものですが、何故か自分は何度も何度もこの「思い出」を読んでしまいますね。

        あと作品のシーンのお気に入りもあります!【なかでも小説「津軽」で、30年ぶりに育ての親・たけと再会を果たすシーン(お互いのやりとり等)は感動的で何度も何度も読み返してしまいますね〜

        • 「思い出」、「津軽」オススメです!
          是非、読んでみてください♪

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