最近、東浩紀の本読むようになった。「存在的、郵便的」を読んだのだが、さっぱりわからなくて悔しかったので、他の本を読み切ってやった。だからこの読書は、ひとつの「復讐」である。
ちなみに、めちゃめちゃおもしろい本だった。
この本は副題の「オタクから見た日本社会」からわもわかるように、ポストモダンという僕たちの生きる時代構造を、オタクを軸として分析する本だ。動物化とは何か?データベース消費とは何か?そういったものを一つ一つ掘り下げて理解するのは、たのしい。
内容
僕たちの生きている”今”は、ポストモダンと呼ばれている。ポスト(後)+モダン(近代)。近代とのあいだには、断絶がある。そのような断絶を境に、僕たちの世界観というものが変わった。ここで著者の東氏が主張するのは、「データベースモデル」への変化だ。
近代は「ツリーモデル」として捉えられる。目の前には、いくつかの「小さな物語」があって、その背後には「大きな物語」が控えている。小さな物語とは、身近なドラマ(日常)であり、大きな物語とは、社会をまとめあげるマクロな理念(イデオロギー、経済成長・革命思想・国民国家・宗教など)である。公認されている社会規範(大きな物語)が、いろんなものに価値を与える。生きる価値だったり、行動の価値を下支えする。つまり、深層にある大きな物語が、表層にある小さな物語を意味付けし、僕たちがその表層を経験して、深層をゆめみる。そんなモデル。
それに対してポストモダンはどうか。ポストモダンを決定的に特徴づけるものは、大きな物語の失墜だった。高度経済成長も終わって停滞気味、みんなをまとめ上げる思想が、無い状態。
そのポストモダンは「データベースモデル」でとらえると理解しやすい。深層には大きな物語のかわりに、データベースが据えられている。表層にある小さな物語たちは、データベースから抽出された要素のくみあわせでできている。
オタクたちの行動はこのデータベースモデルだととらえやすくなる。彼らの消費は、また、二層化されている。データベース(深層)の水準と小さな物語(表層)の水準での消費。いろんなアニメや漫画作品のドラマ(小さな物語たち)を消費する一方で、物語の各要素(キャラクター自身、猫耳・メイド服etc=データベース)を消費している。
いままで、欲求と欲望は区別されていた。前者が、単純に欠如を満たしたいという本能的願望だとすれば、後者は「他者の欲望を欲望する」形式の間主体的・社会的願望。人から羨まれたい、皆の欲しがるものが欲しい、などなど。つまり欲求は第三者が不要で、欲望は必要という違いがある。
ポストモダンで、オタクたちの行動は動物化しつつある。つまり欲求的、欠如ー充足の、自己完結的なサイクルに閉じこもっている。それが小さな物語消費の水準であり、各個人が勝手に感動して欲を満たしている。一方、データベース消費の水準では、コミケなどの疑似社会が築かれている。しかしそれは、「降りる自由」のある、必然性をもたないまがい物の社会だ。自己充足的・形式社会的という2つの性質が共存していること・「解離的」が特徴である。
時間的な流れでオタク社会を見てみよう。すると、
大きな物語が機能していた「理想の時代」▶大きな物語が失墜し、フィクションの世界を捏造し消費する「虚構の時代」▶もはや大きな物語が不要な「動物化の時代」
…と段階を追っていることがわかる。こうしてポストモダンは動物化していく。
考えたこと
気になったこと
データベースモデルの世界観、なるほどな、と思った。すごくおもしろい。だけど一方でわからなかったこともある。
オタクたちの社交性についてだ。「シミュラークルの水準での動物的とデータベースの水準での人間性の解離的な共存。」なぜ、データベースの水準では人間的たりうるのかコミュニケーション自体は消えなかったのか。
オタクの社交性(人間性)について、「降りる自由」のある社会へコミュニケーションの質が変化したこと、以外は書かれていなかったような気がする。(僕は読解力に自信が無い。浅く読んでいるだけかもしれない。)
もしこのまま動物化が進めば、コミュニケーションが消える、なんてことはありうるのだろうか?
動物化について
動物化とは、効率的に感動する装置に支えられて、欲望を自己完結させること。なるほど、ありすぎるくらいに身に覚えがある。夏、毎日2時間のYouTube。ほどよくおもしろく、何も考えないでずっと見てられる。動物か?
一方で、動物化はよいことだ、という主張もある。それが『暇と退屈の倫理学』、僕の哲学の原点。この本では「消費」と「浪費」を区別し、退屈の原因は消費にあると言う。
浪費は対象がモノで、消費は対象が記号情報だ。モノには実体があり、かさばるから、浪費には上限がうまれる。しかし消費はそうではない。「他人からお金持ちに思われたい」「おしゃれに思われたい」「ブランドが欲しい」「新型のアイフォンが欲しい」、「インスタのためにあのお店に行きたい」……。つまり浪費が”欲求”、消費が”欲望”だ。そして消費は対象が記号であり、終わりがないから、どこにも行き着けない。ゆえの退屈。
動物化の本質は、一つの環世界にとじこもること。つまり没頭すること。浪費も一つの動物化である。退屈から逃れたいなら動物化するべきだ。
こういう主張。動物化で満たす。それがいいのか悪いのか、「動物化するポストモダン」では述べられていない。
『自分ではすごく良く書けていると思っているんですよ。完璧といってもいい(笑)。なぜ完璧かというと、結論の宙づりに成功しているからです。』と、実は東浩紀は言ってるんですね。<引用元>
書いた本人があえて宙づりにして、わざわざ余白を残してくれている!!これは書くしかない。
僕なりの哲学
動物化がいいことか、悪いことか、という問いには意味がない。だってケースバイケースでしょうに。僕が書きたいのは、動物化の力学についてだ。どういう理由で動物化が欲され、動物化は功罪ひっくるめて何をもたらすか?
まず、動物化をもっかい確認しておこう。動物化とは、なにかに没頭すること、欠如-充足という自分の欲求を満たすループにはまることだ。そうして、自分ひとりの世界に入り込むこと。
そしてこれは、技術の進歩と、思想の移り変わりの2つに支えられている。技術の進歩は、インターネットとか。欲しいものを買うのに、わざわざお店に出向かなくても、Amazonをポチっとするだけで買えちゃう。思想に関しては、個人化・多様性、と言えばわかるだろう。
じゃあ、いつか他者が完全に必要なくなるときが来るのか? …NO、だと思う。
まず、さっき書いた、他者がだんだん不要になってきていることだが、これは欲求を満たす<手段>としての他者が不要になるということだ。<手段>を他者に頼るということは、リスクもあるし、不必要に煩わしい。だから「めんどくさいコミュニケーションを減らそう」ということになってきた。
職業なんかも、今は個人化が進んでいるはずだ(まだ人生経験がすくないから、想像だけど)。企業では、終業後に飲み会に行くのが、昔は常識だったとか。だけど今は違うし、オフィスも区切られて、そもそも決められた分だけをきっちり働けば出社すら必要なかったりする。労働=お金を得るという幸福のための手段だが、そこからも他者が排除されている。
じゃあ、肝心の稼いだお金は?というとそれを完全に自分のために使うことは少ない。形式的には「自分のため」ではあっても、突き詰めれば、その欲望は他者に向かっていることが多い。例えば、美容にお金を使うとき、それは自分のためのようで、「他人からかっこいいと認められたい」というような他者を介在する欲望である。だから、<手段>において他者は排除されていくが、<目的>では他者は存在しつづける。
むしろ、<目的>としての他者は、ますます存在感を増していく、と僕は考えている。
今、動物化もビジネスになりつつある。マルクスは、価値原則を、時間がお金を生む、と規定した。(それとはすこし意味は違うが)今、企業は人々の時間を奪うことに心血を注いでいる。SNSにおいては、できるだけ長くサービスを消費してもらって、たくさん広告を見せて儲けよう、という算段である。ゲームではまた別の形式だったりするが、人々の時間を奪おうとしていることに間違いはない。だから企業は、動物化ビジネスをしている、と言える。
だけど皆そこまで馬鹿じゃない。自分が動物化していることには気づいている。没頭している間は、外側の世界が「消える」から関係ないかもしれないが、没頭がおわった瞬間に「むなしい」と思う。夏休みに、YouTubeを7時間見た後のような、はたまた日曜日を丸一日ゲームに費やしたかのような。そこで、「ああ、なにをやっているんだろう」と気づくわけだ。
優れたサービスは、目的をも内側に取り込む。「何かを調べるため」とYouTubeを開けたら、いつのまにか関係ないものを見ていた、みたいな。ユーザーは最初、目的があるのかもしれないが、人々の時間を奪うビジネスなら、それはただの手段じゃいけない。同時に、目的にもならなければならない。それに取り込まれた人は、消費が自己目的化してしまい、そのループから抜け出せなくなる。だいたいの人はうまく騙されて退屈をまぎわらすだろうけど、その魔法がふと途切れることもある。ずっと画面をスクロールしながら、心の底では、退屈しきっている。
このように動物化にも限界がある。その動物化疲れが、人間を疑似社会に向かわせる。これは<手段>じゃなくて、あくまで<目的>としてのコミュニティだから、いつでも関係を切ってもかまわない。皆「降りる自由」を持っている。でもせっかく入り込んだ社会がそんな不安定なものだと知りたくないから、何度もコミュニケーションを繰り返して、互いに承認を与え合うことで、実在を保証している。内側で互いの存在を確認し合い、外側の世界を見ない。そうすれば、自分たちにとってのコミュニティを絶対だと思い込める。
<目的>としての他者、<目的>としてのコミュニティでは、評価が絶対だ。生きる意味を他人に求めていて、より多くの人が承認をくれたら、その分、存在の「意味付け」がなされる。
評価が絶対の社会。そもそもなんで評価重視になったのかというと、大きな物語が凋落して、生きる意味付けがなされなくなったから。統一的な善悪の観念・価値観が崩れたから、あらゆるものが意味を失った。かわりに価値観が多様化して、意味付けをする神話の立ち位置が空席になった。で、どうしたかと言うと、かわりに「評価」をその座に据えた。
評価は、お金みたいなものだ。本来なら媒介不可能な、商品どうしの交換を媒介する。思想において、評価の数が最も簡単にいろんなものの価値を表せる。
(なんか書いてて思ったけど「評価経済社会」っぽくなってきたな。ちゃんと読んだことはないけど)
そろそろ結論。評価が社会にとっても個人にとっても支配的になったなら、個人は完全に動物化することはもはやできない。その<手段>からは他者性が排除されるかもしれないが、至高の<目的>に他者が置かれることになる。<目的>に他者を据えた状態で、<手段>に没入すること。あくまで社会的な欲望の枠組みで個人的欲求を満たすということ。それが新しい時代の動物化なんじゃないか。
なんだかよくまとめられたっぽいので、ここで一旦区切ろうかと思う。僕なりの哲学は、多分に独善と偏見と妄想に基づいているのであしからず。ただ、一つ実例を挙げるなら、ゲームにおいては結構あてはまってるんじゃないか?最近は、ソシャゲとかのオンラインゲームの発達が目覚ましい。そういったゲームは、きわめて個人的な行動に見えて、実際はコミュニティが存在する。ゲームを遊ぶ目的は、もちろん「一人でやってて楽しいから」というのもそうなのだが、「一緒にゲームをする友達を失わないため」、「その友達に自慢するため」というのも珍しくない。実際、一人でやるゲーム程つまらないものはない。だから、<目的>としては他者を指向し、<手段>に没頭する、というのはあながち間違いでもないような気もする。異論・反論大歓迎。
そんじゃ、今回はここら辺で。新学期最初の日の夜に、何を書いているんだか。明日から期末試験なのに……。
ではでは。グッド・バイ。
コメント 感想をください!
違うかもしれませんが、日本のオタク達が、
「なろう系」にハマるのは現実に起こった
高度経済成長も終わって停滞気味、
みんなをまとめ上げる思想が無い、「停滞した社会」から現実逃避するためが原因かなと思いました。
アメリカの若者は、同時多発テロの尻拭いを氷河期世代に強制的にやらされ、生きる気力を段々無くしているようです。
(いわゆるdoomerと呼ばれる将来に対して極度に悲観的な思想を持つ若者たち)
doomerについても、調べて見たら興味深いですよ〜!
ではお互い御身大切に!!
補足
氷河期世代(1970年(昭和45年)4月2日から1982年(昭和57年)4月1日までに生まれた世代)
のこと。
主にバブル崩壊後の1993年から2005年に学校卒業・就職活動していた年代を就職氷河期世代という。(wiki引用)
それはそうかもしれませんね。なんとなく気詰まりなムードがあったから、その打破を夢見ているのかもしれません。
「なろう系」はいずれ考察したいなーと思ってました。いろんな要因が絡んでいて、僕は、そのなかのひとつに相対主義への反動と、固有性への渇望があるのかなと思ってます。相対主義への反動というのは「それってあなたの感想ですよね?」のアレ。こっちとそっちの価値観は違うんだから押し付けないで?という態度ですね。善いことをしたいけど、絶対的正しさの基準がないから、空想の世界で力を行使してなりあがる。暴力が唯一の正義であるような世界観にトリップする。(大きな物語の凋落と同じようなことです)。固有性への渇望は、「自分じゃなくて良かった」に対する反発ですね。いまの世の中って(昔からそうなんですけれど)、結構確率的な世界です。それが自覚されはじめた。たとえ自分が努力して成功したとしても、それが偶然だったことに気づいたらただ覚めるばかりですよね。あとは自分じゃなくて自分の資格が見られるようになってきてる。ガワしか見てもらえないことの不満が、「選ばれし者」の世界観、コンプレックスの裏返しなんじゃないかな……と思います。
ちょっと長くなっちゃった。いつもコメントありがとうございます。すぐに読んではいるけど、忙しかったりすると返信を後回しにしてしまいます
ごめんなさい(*_ _)