【書評】実は「われ思う」が真理ではない理由。「ツチヤ教授の哲学講義」Part2

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前回に引き続き「ツチヤ教授の哲学講義」の紹介をしていきます。

前回の内容を軽くまとめると、最初に「哲学が何ではないか」を示して他の学問との違いを明らかにし、次にベルクソンやプラトンなどの哲学者が考えた形而上学はどちらも言語的問題に過ぎず、真理を発見したわけじゃないと否定して終わりました。

今回は知覚に関する「蜜蝋の議論」「イデア論」「われ思う、ゆえにわれあり」のあたりについて話していきます。極力わかりやすくするので、最後までついてきてください!

4日目 「机の色や形は見えても、机そのものは見えない」

「見るとは・知覚するとはどういうことか」について議論するのがこの章。

机そのものは見えないのはどういうことかというと、私たちが「机を見る(そんなことはなかなか言わないけど)」というとき、私たちはその机の1部分しか見えていないため、もしかしたら「机」は本当の机ではなくペラペラなものだったりするかもしれないということ。このように私たちが実際に見ているものは机の色、形、大きさ、数などの性質である、ということなんですね。

その喩えとして、デカルトの有名な「蜜蝋の議論」というものがあります。(ここで蜜蝋というのは、ろうのような熱で溶けて性質の変わるものだと考えてください)

(A)変化の前に知覚されていたものは変化の結果、すべて失われる。
(B)蜜蝋そのものは変化を通して失われない。
(C)ゆえに蜜蝋そのものは知覚されない。

つまり、蜜蝋は溶けると形などの目に見える性質が変わってしまうけど、私たちはそれを蜜蝋だと判断できるから「蜜蝋そのもの」は知覚できない性質であるということ。

しかしツチヤ教授はこの議論の誤りを次のように説明しました。

(A)の「変化の前に知覚されていた」性質に蜜蝋はそもそも含まれていない。もし含まれていたら、それわの性質が「すべて」失われなくなってしまい、議論そのものが破綻してしまうからだ。だから蜜蝋はそもそも知覚されていない。これを整理すると「蜜蝋は知覚されていないから蜜蝋は知覚されない」と言っているにすぎず、前提が間違っているためこの議論自体が誤りである。

机が見える・見えない は表現の違いですが、言葉の使い方の間違いを示すことは無理な目論見であるため、「前提=結論」となる循環論法を使わざるをえなかったのです。

納得。(ちなみにこのあとに現象論も説明されていますが、省きます)

5日目 「ツチヤは本当の意味で、人間とは言えない」

この章のメインテーマは、プラトンのイデア論です。

まずイデアがどんなものかを説明することが難しいらしいんですけど、この本では「~それ自体」ということで説明されています。例えば「人間それ自体」=人間のイデア、って感じです。
そして、例えばバラが美しいと感じるとき、本当に美しいのは「美そのもの」つまり美のイデアだとプラトンは主張するのです。なぜならバラ自体は時間変化で美しくなくなったり、見る人の状況などの見方によっては美しくなくなってしまうため「美しくない」という要素を含んでいるから。
でもイデアは「美そのもの」だから違い、完全に美しい。

もう少しわかりやすくするために三角形のイデアについて考えてみます。
たとえば身の回りに存在するような三角形(標識でもこんにゃくでもいいんですけど)は三角形ではないという要素を含んでいます。(辺が直線ではない、歪んでいる等)簡単に形を変えることだってできます。
でも幾何学で私たちが取り扱うような三角形はそんなものじゃないですよね?いつでも変わらずに三角形は三角形の性質を持ち続けます。この三角形はさっきまでの個別の三角形とは違い、三角形じゃなくなることがありえない。そしてプラトン流に言うならば、これが「三角形のイデア」ということになります。

そしてイデアというものは心からも、現実のものごとからも独立しています。だから例えば人類全員が三角形というものは存在しないと思っていても、それとは関係なしに幾何学の世界(イデア論における「イデア界」という空間)に存在し続けます。

これが(この本における)イデア論の全体図です。

6日目 絶対に疑えないもの

まずはイデア論の批判から。

イデア論の根拠って必然性なんです。要は、個別の三角形(例えば油揚げ)は三角形じゃないことがあり得るが、三角形のイデア=三角形、は必ず成り立ちます。でも私たちは個別の三角形が三角形であることを認めています。
たしかにプラトンの言うことは正しいですが、実際は私たちの言葉遣いに異議を唱えただけのこと。例えるなら「大阪城を建てたのはだれか?」という問いかけと同じです。私たちはこれの答えとして「豊臣秀吉」も「大工」も認めていますが、それが必然的には成り立たないからといってプラトンは「大阪城を建てた人は、大阪城を建てた人だ」という言い回ししか認めない、といっているのと変わりません。
また美のイデアは「美じゃない」という要素を含みませんが、美が美でなくなること(桜が散ること)を美とする場合があります。これは私の考えたものですが、「生のイデア」があったとしたら、それは純粋に生きていることそのものを指しますが、「生」はそもそも「生でない要素」つまり「死」の可能性を含まからこそ生が成り立っているわけです。つまりAでない要素を含むものはAそのものではない、とするイデア論は間違っています。(この話は蛇足だったかも)

次に話はデカルトに移ります。同様の形而上論者としてデカルトが挙げられますが彼は「われ思う、ゆえにわれあり」でよく知られています。これを説明するにあたり一つ例を挙げます。

もし私が何かを見たとしても、それは錯覚かもしれない。私が感じているものはすべて夢かもしれない。こうしてデカルトはすべてのものの存在を疑っていくことで、疑いえないものすなわち絶対的に確実なものを探していきました。そしてその結果残ったのが「意識」です。私が何かを考えているとき、「私が考えている」という事実は誰にも否定できない。ほかにも「黒板を見ている」というのは疑えるかもしれないけど、「ここに黒板があると思っている」ということは疑えない、と。
だから「われ思う」⇒「われあり」なんです。(このあと現象学の話がありましたが省きます)

7日目 われ思うが疑えない理由

この章は六日目のデカルトの批判です。

ツチヤ教授曰く、「われ思う」が疑えないのは我々の言語規則のせいであるとのことです。
前提として「真」「偽」というのは事実と思考内容や文が一致しているか否かです。例えば、「地球は丸い」(事実)と「地球は丸い」(思考内容)は一致しているため真だが、「地球は丸い」(事実)と「地球は平ら」(思考内容)は一致していないため偽である、というような感じ。

しかしこのとき思考内容を「~と自分は思っている」という形式の文章にすることで、~の部分に偽となる理由が来ても真になりえます。例えば晴れているときに「曇りである」と言えばそれは誤りですが、「曇りだと思っている」とすればこのとき実際の空の状態とは関係なしに、自分の心の状態(=心理的事実)と一致するかのみが問題となります。

ではこのとき、どうやって心理的事実を調べるのでしょうか?例を挙げて説明すると、たとえば芦ノ湖指をドアの隙間に挟んだとしましょう。このとき「痛い」と思ったとしますが、これが真か偽かを判定するとき、「痛い」という事実と照合します。この「~と思う」という文の真偽はほかの場合と異なり、自分の思考内容と客観的事実を照合せず、自分の思考内容と主観的事実を照合するので対立することがなく常に真となります。

しかし実際には自分の意識のなかの文でも、「理解している」や「愛している」等は行動が伴わないといけないため間違うこともあります。これらは真偽の基準がその考えている人の内側になく、外部からその人がどう思っているかに関係なく判断できるからなんですね。だからもし、痛いかどうかを脳波によって判定すると言葉の定義を決めた場合、「痛い」と「痛いと思っている」は食い違う可能性があるんですね。

ここから教授は「われ思う」が疑えないのは言語規則のせいである、として言語規則から真理を導くことはできないから無意味であると否定しています。

まとめ

お疲れ様です!今回話した内容はかなり難しかったかと思います。今回の内容をサラッとおさらいすると、

1、知覚するとはどういうことか
2、知覚されないイデアについて
3、「われ思う、ゆえにわれあり」
4、「われ思う」への反論

という感じになっています。

普段からこのような本に関する投稿や、役に立つ知識などを紹介しています。毎日投稿しているのでぜひまた次の記事で会いましょう!

それじゃ、グッバイ



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