『斜陽』をもう一回、読んでみる。太宰のなかで最も好きな小説の一つ。やはり、文章が美しい。
まだ読んでいない方へ、あまり深入りしない範囲で斜陽のあらすじを紹介する。
戦後。最期の貴族であった母と、その娘である私(かず子)。弟の直治が復員して、幸福は、残り火の光を残して、ふっと消えてゆく。母の病気。直治のアルコール中毒。私は、ぼんやりした不安を抱えて、直治の師匠にあたる流行作家の上原に恋をする。それぞれが迎える、とびきり美しい、破滅の物語。
ここから先は、自分の目で確かめてほしい。(この後、本文ネタバレ含む)
再読すると、いろんなことに気づく。ふと気になったこと、それが今回のテーマ。
母と私、蛇と蝮。そんな比喩について
かず子は、蝮と間違えて蛇の卵を殺してしまう。それを見ていたお母様、以降、極度の蛇嫌いになってしまう。蛇と蝮は何を表してるのか。
ああ、お母様のお顔は、さっきのあの悲しい蛇に、どこか似ていらっしゃる、と思った。そうして私の胸の中に住む蝮みたいにごろごろして醜い蛇が、この悲しみが深くて美しい美しい母蛇を、いつか、食い殺してしまうのではなかろうかと、なぜだか、そんな気がした。 p.20
物語中ででてくる、美しく物憂げでほっそりした蛇は、お母様にあたる。かず子はその蛇の卵を、殺してしまうのだ。そして自分を、母蛇を殺してしまうような、いやらしい蝮だと感じるようになる。実際、物語が進むにつれて、「私」の心に巣食う蛇は、蝮に変わっていく。
なんだか自分の胸の奥に、お母様のお命をちぢめる気味悪い小蛇が一匹はいりこんでいるようで、いやでいやで仕様が無かった。(p.18)
鳩のごとく素直で、蛇のごとく慧かれ(p.95)
こないだ差し上げた手紙は、とても、ずるい、蛇のような奸策に満ちていたのを…(p.100)
蛇と蝮。
上品な母蛇は、お母様。「かず子の心に巣食う蛇が蝮に変わる」というよりかは、むしろ、かず子の心にあったお母様のような上品さを受け継いだところ(蛇の卵)が、世俗的な下品さ(蝮)に殺されていった、と考えるべきかもしれない。かず子は、昔は貴族の暮らしをしていたのだが、伊豆に引っ越し、農作業をするようになる。上原への手紙で、「だんだん動物的になっていく」ようだと告白しているが、それが蝮になるということではないか。
蝮が母蛇を食い殺す。これはある意味、革命のようだとも思える。母>娘の支配関係を、娘>母へと逆転すること。
そしてかず子にとって、革命と恋は常にセットだった。なぜなら、同じものだから。
それでも、したう恋ゆえに、破壊しなければならぬのだ。革命を起こさなければならぬのだ。ローザはマルキシズムに悲しくひたむきの恋をしている。 (p.134)
恋も革命も、「私」にとってはロマンなのだ。それは、今ある不安から離れて、新世界へと思いを馳せる妄想。旧来の道徳を破壊して、妻のいる上原との恋をなんとか成就させようという恋は、すなわち革命である。それは最後にも現れている。
こいしいひとの子を生み、育てることが、私の道徳革命の完成なのでございます。
ガラッと旧来の秩序と道徳が変わる時代に、最後まで、純粋な貴族であり続けたのだ。だから、私は生きて、母は死んだ。そういう解釈は、どうだろうか。
夕顔と直治
個人的な話になるが、僕は『斜陽』のなかでは、直治が一番好きだ。民衆と貴族のあいだで揺れ動き、下品にはとうていなりきれず、ひとり、死んでいく。一番、人間味があると思う。(治という字が入ってるから、太宰にとっても一番思い入れのあるキャラだったんじゃないかな)。
論理は所詮、論理への愛である。生きている人間への愛では無い。……学問とは、虚栄の別名である。人間が人間で無くなろうとする努力である。
最初にこの本を読んだとき、すごく衝撃的だったのが、直治のこのことばだ。
直治の人生は、いたって悲しい。貴族の血に生まれて、高校で民衆と混じり、疎外感を感じ、血を憎むようになる。貴族だというだけで仲良くはしてもらえないから。そう思うと最初の、「爵位があるから、貴族だというわけにはいかないんだぜ。」という発言は、血に縛られている自分のコンプレックス、その裏返しとも取れるんじゃないか。
ずっと、下品な口調であろうと努めた直治が、死に際に「僕は、貴族です。」と遺して死んでいくのは、あまりにも切ない。
「不良でない人間があるだろうか。」「とにかくね、生きているのだからね、インチキをやっているに違いないのさ。」 その後の、かず子の、「不良とは優しさのことではないかしら」という言葉。僕はここがすごく好きだ。かるくなる。
遺書にでてくる直治の言葉。
「人間は、みな、同じものだ」と人は言う。どうして、「人間は、みな、優れている」と言えないのか。頑張っても頑張っても、結局、「お前も俺も変わらねえ」と否定されて、直治は悪友と同じところまで、堕落したのだろう。大衆に貶められ前に、自分も大衆に混じってしまおう。そう信じる一方、上原の妻に恋をしていしまい、永遠に手の届かない距離に悶絶していた。
酸っぱい葡萄。
再読して痺れたポイントがある。遺書の最後のあたり。
姉さん。
僕には、希望の地盤が無いんです。さようなら。
結局、僕の死は、自然死です。人は、思想だけでは、死ねるものでは無いんですから。
作中の『夕顔日誌』に重なるところがある。「金が欲しい。さもなくば、眠りながらの自然死!」。
夜が明けて来ました。永いこと苦労をおかけしました。
さようなら。
ゆうべのお酒の勢いは、すっかり醒めています。僕は、素面で死ぬんです。
酔い=世間の狂騒、に幻滅し、死ぬことが、きれいに酒に喩えらえている。酔いから醒めて、純な美しさに恋い焦がれて、死んでいくんだ。
夜=俗な世間。昼=純粋無垢な尊い世界。
直治は昼にも、夜にも染まり切れなかったのだろう。最期に「夜」から醒めて、死ぬのだ。
夕顔は、昼には咲けないから。
M.Cについて
上原に、かず子がつけた別称、M.C。イニシャルそのままに、M.Cの中身は変わっていく。それの考察。
M.C=マイ・チェホフのとき。
チェホフは有名なロシアの劇作家。上原をM.C=マイ・チェホフのとき。チェホフは有名なロシアの劇作家。上原を作家として、その才能に惹かれて恋していた、ということだろう。
M.C=マイ・チャイルドのとき。
(私は作家に恋しているのではありません。マイ、チャイルド。)とあるように、もはや恋しているのは作家ではない。チャイルドの含意は、かず子が、上原との子供が欲しいと強く思うようになったことかもしれない。あるいは、上原が世間の欺瞞に対して「札付きの不良」で対抗しようとしていること、しかし阻む道徳を押しのけられないことを、まるで反抗期の子供みたいだと感じているのかもしれない。いずれにせよ、上原をあくまで等身大で愛していることの表明だろう。
M.C=マイ・コメディアンのとき。
上原への幻滅、だろう。上原に会いに行った時にはもう、「私のその恋は、消えていた」のだ。上原も結局は貴い犠牲者で、かつて恋したような輝きはもはや無い。結局のところかず子は、恋に恋していたのではないか?その恋が、ドラマチックなものではなく、ただ、現実の延長線上にあったことにきづいて、上原もただの軽薄な喜劇の役者だと返したのだろう。
あるいは、それでも上原が「私」の生きる希望であることも、彼がコメディアンたるゆえんなのだろう。幻滅と、希望。
道徳の過渡期、進みゆく革命の、尊い犠牲者。本人から見れば悲劇でも、革命後からしたら喜劇にしか見えない。自分たちの滅びを、そんな目線でかず子は見ていたのだろう。
最後に、かず子と上原のすれ違いで最も印象的だったシーンを。
「私、いま幸福よ。四方の壁から嘆きの声が聞えて来ても、私のいまの幸福感は、飽和点よ。くしゃみが出るくらい幸福だわ」
上原さんは、ふふ、とお笑いになって、
「でも、もう、おそいなあ。黄昏だ」
「朝ですわ」
弟の直治は、その朝に自殺していた。
終わりに
今回の考察の大きな軸となったのが、昼と夜について。
昼の世界(純粋無垢な貴族の世界)と夜の世界(卑しい生活)という二項対立がまずあって、「斜陽」は物語全体を通じて、夜に差しかかろうとしているのだ。それはかず子の変化と対応している。
かず子は貴族からどんどん墜ちていくが、朝という希望を見失っていない。
母は、純粋で、夜には生きられない人であったから亡くなった。
上原は、随分と前から輝きを失い、夜の世界に染まってしまった。
直治は、ずっと昼にも夜にも属せないでいたが、恋をして、昼に憧れた。しかし自分が、もうそこには手の届かないことを悟り、夜明けとともに死ぬことを決めた。
昼と夜のストーリーがぼんやりと交錯する時間帯。だから「斜陽」なんじゃないかなと。
今回はここまで。最近は急に秋になって寒くなってきてるから、体調に気をつけたいところ。
グッド・バイ
コメント 感想をください!
「斜陽」良いですよね〜♪
かず子の母がスープをひらりひらりと掬う描写が美しかったです。
登場人物の三者三様の生き方が、どれも「滅び」として
表現されている。でも、それは「再生」でもある。
やっぱ、太宰、大好きです!
ブログありがとうございます!
僕も太宰の小説(短編除く)では「斜陽」が今のところ1番好きでして。滅びと再生が、斜陽を介して繋がってるところにすごく美しさを感じました。
返信が遅くなってしまってごめんなさい!
そうそう!この前、大学で「太宰治の文学」について学んだのですが、面白い説を教授に紹介されましてね!
実は、太宰治の文学の裏テーマは「近親相姦」説があるんですよ!そして、それが顕著に現れてるのが
この「斜陽」らしいです!!!
この内容、ブログでまとめたので読んで欲しいです!!!