政治と多様性の対立

考察
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今や多様性の時代だ。常識。それはつまり「多様性」と言っておけばとりあえず無難だ、という社会的合意に他ならない。

意見が対立したら、とりあえず「多様性だよね。」と言って場を丸く収める。あるいは、自分が否定されたと感じたら「多様性を認めろ!」と反論すればよい。すごく便利なものだ。
『玉座を以って胸壁と為し、詔勅を以って弾丸と替え』。現代なら、さしずめ『多様性を以って胸壁と為し、多様性を以って弾丸と替え』といったところか。

多様性=ひとりごとの時代。

多様性を哲学的にみるなら、それは相対主義のことである。「あなたはあなた、わたしはわたし」。それは相互に相手を尊重しているようで、「このライン以上に踏み込んでくるな」という警告メッセージ、相互不干渉に他ならない。領空侵犯がなされた、と感じたら、戦闘機なりミサイルなりを飛ばし、命の保証は無い。

そして最近よく感じるのが、「領空」が過剰に広がっている、ということ。視界に少しでも嫌なものが入ったら、それを攻撃とみなし、過剰な防衛システムが起動する。YouTubeのコメント欄でも見てみるといい。否定的な意見を送ったが最後、「好きじゃないなら見んなよ」「ネットで陰キャがイキってる」、罵詈雑言のゲリラ豪雨が浴びせられること間違いナシだろう。確かにアウェイで否定的な意見を言うことがトラブルを招いてもいるのは事実だが、コメント欄が公共の場所である以上、そのようなコメントを残す自由もあるはずだ。

いずれ、否定的な言葉が一切ひとまえで言えなくなるときが来るだろう。辞書からも否定的な言葉が消え、すべてがクリーンで、調和に満ちていて、相互承認しか存在しない、薄っぺらい世の中。

古代から連綿と続く、相対主義

相対主義がなぜ起こるか。それは超越的な価値基準が無いからだ。AさんとBさんがそれぞれ別のことを言っているとき、それぞれの意見は等権利的であり、どちらかを「正しい」「誤っている」と断ずることはできない。

しかし、超越的な価値基準があれば、もちろん事情は異なる。例えば、科学や数学の世界では、基本的に答えは一つに定まる。それは、対立するAとBの意見を、整合性という高次の観点から判定できるのだから。

だけど僕たちの世界には、今、「神」がいない。つまり相手と自分を媒介できるものが、無い。だからこそ、「多様性」という誤魔化しが蔓延るのだ。<わたし>がこう感じたことじたいは、誰にも否定できない。その世界では、相手の意見はすべて感想で、わたしの主張もひとつの感じ方を示すだけのものとして、相手と自分のあいだに溶けるだけだ。壮大な、「ひとりごと」時代の到来。

しかし多様性はそもそも矛盾をはらんでいる。「多様性なんてくそくらえ!俺が正義だ!」と言う人も、また多様性によって認められなければならない。独断主義と相対主義は、常にコインの裏表の関係にある。
「俺が正しい」と言う人がたくさんいれば、それぞれの頑固者が対立して、暴力によって徹底的に戦うか、相互不干渉の原則と国境をさだめて相対主義に落ち着くかの2択である。

多様性が常識ならば、「多様性なんてダメダメだ」ということだってできるはずである。しかしそれを認めるわけにはいかないから、相対主義は、「多様性を壊す人は、徹底的に攻撃していい」という「不寛容な寛容」にならざるを得ない。ちょうど犯罪者が、一般社会から切り捨てられるように。「多様性」を認められない人は、「差別主義者」のレッテルで、徹底的に差別される。

ーこれが多様性=相対主義の、限界である。

そもそも、政治は本質的に、「この私」とは相容れない。

ところであなたは「トロッコ問題」を知っているはずだ。

こんな問題を考えてみる。今、トロッコは制御を失った状態で、線路の分岐点にさしかかった。勢いが乗って、もはやだれにも止められない。あなたは今、その分岐スイッチのあるところに立っていて、レールを切り替えることができる。今、進んでいるレールには、工事作業中の作業員が16人、もうひとつのレールにはなんでか知らないけど、あなたの両親が立っている。このとき、どっちを犠牲にして、どっちを助ける?

5…4…3…2…1…….。どんっ

この問題こそが政治の核心だと、僕は思う。個人としてのあなたはどちらを選んでも構わない。ただ、政治の領域では必ず、作業員の方を救わなければならない。と、思う。シンプルに、そっちのほうが助かる人数が多いという、功利主義的な理由からだ。

政治と個人は常に対立する。(個人の「意見」と、政治の「決定」が常に真っ向から衝突する、という意味ではない。)二項対立で整理しよう。

政治 ⇔個人
マクロ⇔ミクロ
量  ⇔質
一般論⇔ストーリー
大衆の中のひとり⇔唯一の存在としての私

そもそもの話、政治というのは、①組織全体を俯瞰して②決断をするためにある。

だから、「①全体を扱う」ためには、個々の要素、個人個人をじっと眺めていてはいけない。「木を見ず、森を見る」必要がある。そのためには、質ではなく量で捉えなくてはいけない。「この森には、立派なケヤキと、まだ若いイチョウがあって……」と言うのではなく、ただ単純に、それらを平均化された量として、「木が~本ある」、と扱わなければならない。個々の特徴、ストーリーは切り捨てられなければならない。

そして政治は、全体の把握を通して、決断をする。「①全体を扱う」ために、個人個人が量に還元されなければいけないのは結局、情報を効率的に扱うことと、この決断の公平性を担保するためである。政治の領域においては、「血縁関係だから、縁故があるから」など、もってのほか。公私混同はなはだしい。相手が誰であろうと常に、万人に平等で、同様に無慈悲な決断がなされなければならない。

だから、さきほどのトロッコ問題の例で言うと、公人としての政治家ならば当然、人数の多い方を助けるべきだ。スケールをデカくしてもそれは同じ。救急医療のトリアージのように、極限状況では、数人を切り捨てざるをえないこともある。そこに情は無い。

政治が、どう多様性と被るのか

そんなこんなで政治の話をしてきたわけだが、これがどう多様性と関係するのか。

話の流れから推測した人もいるかもしれない。ご明察。それは多様性が完全に「たったひとりの、この私」という、個人の領域に属するからだ。

多様性が個人の領域に属するというのはどういうことかと説明しよう。
個人として生きるなら、あなたは面と向かった相手の話を、共感しながら聞かないわけにはいかない。「うんうん、そうだね」と思ってもみない相槌を打って場を和ませることが要求される。それが良識ある大人ってヤツ。どんな相手にも、1対1の、フェアな関係。個人は、量よりも質を重視して、相手の考えの凹凸を、特徴をとらえようとする。

でも一方、政治家には、ある種ドライな考え方が要求されるだろう。相手の話を聞いても、「でもそれが大勢の利益と対立する」と明確にNOを突きつけられなければ、決断できなければ、もはや政治ではない。理想論者。多様性は決断しない。政治は、決断する。

結び

しかし最近、<政治の領域>が、<多様性=個人>の領域に浸食されつつある、と僕は思う。

アメリカやヨーロッパを見れば、わかるだろう。いわゆるポリコレだったりダイバーシティだったり。行き過ぎた反差別をしていないか?ということ。逆差別みたいなことも起こりうる。
例えば、黒人が白人警官に殺害された事件は大きく報道されて、社会的ムーブメントになりがちだが、実際、白人警察官が黒人に殺される確率は、その16倍ほどあるそうだ。例えば、オリンピック等の世界大会に、トランスジェンダーの元・男性が出て、世界記録を大きく塗り替える、なんてことは優遇にあたらないだろうか。(これに関しては、必ずしも有利になるわけではない、などという研究もあるので断言はできないが)。最近も、日本の戦国時代を舞台にした「史実に忠実な」ゲームで、なぜか黒人が主人公、という展開が物議を醸した。黒人が悪いわけじゃない。ただ、史実を捻じ曲げてでも、”政治的正しさ”を押し通すことが、正しいとは全く思えない。そもそも、黒人差別の問題はアメリカやヨーロッパなどの歴史的問題であって、無関係な他国に反省を強いる、というのは筋が通っていない。

政治は、決断しなければいけない。その際に、「反差別」「多様性」などといって、一部のカテゴリーに属する人だけが、不当に得をするなんてことはあっちゃいけない。もっと全体を俯瞰しなきゃいけない。意味不明なロジックを唾棄しなきゃいけない。

そうじゃなきゃ、民主主義も、政治も、不可能だろうから。

コメント 感想をください!

  1. 相対主義【多様性】で重要なことは、他者の価値観を絶対化してしまうことなく、その価値観に対して自己の価値観をもって矛盾を生成して示して、相対化すること。

    はたして「正しさは人それぞれ」や「みんなちがってみんないい」という主張は、本当に多様な他者を尊重することにつながるものなのだろうか。
    そもそも、「正しさ」を各人が勝手に決めてよいものか。
    それに、人間は本当にそれほど違っているのか?

    【世間】には、社会性も多様性も存在しないのかもしれない。
    難しいですね…
    遊ろじさん、ブログお疲れ様です!(*^^*)
    次回も楽しみにしています!

  2. 多様性がほんとに他者を尊重しているのか。

    哲学の歴史は、プロタゴラスの相対主義からヘーゲルの絶対精神・サルトルの実存主義などの独断主義を経て、現代思想ではまた相対主義に一巡して戻ってきているような気がします。

    人間はそれほど違わない、という共通項と、人それぞれ、という差異をそれぞれどこに適用するか。そんな基準が必要になってきていると思います。

    僕自身は、基本的には相対主義で良いと思いますが、なにかを決定する場においてはある種独断主義(多数決でも、ときには独裁でも)が絶対的に必要だと考えてます。それを拒み続けたら、逆に機能不全に陥ってしまう。
    結局、いつまで経っても、自と他の隔絶を越えられないのか。難しいですよね。

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