【エンタメとアート】見るに値しないストーリーの特徴4選

考察
考察読書論
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私には、嫌いなストーリーの”型”がある。そして最近至るところでその型は増殖しまくっている。

たとえば「誰それに攻撃されたから仕返ししてやったわ笑」とか、「ある日急に覚醒した件」とか、「実は能力を隠していた」とか「異世界で無双する」とか。
もううんざり。駄本、低俗、ナンセンス……

これだとただの愚痴なので、今回はそのバックグラウンドを考察していこうと思う。
なぜこのような話が流行るのか?
このような陳腐な<エンタメ>と、いわゆる文学=<アート>の境目はどこにあるのか?

ひとつ、先に結論を挙げるなら、<アート>の目的は「人を傷つけること」であり、<エンタメ>の目的が「回復」だという、指向性の違いである。

回復

氾濫する<エンタメ>

と、いうことでまずは<エンタメ>の内実を深く見ていこう。そのような物語には、経験的に感じた特徴が4つある。

①主人公(=弱者=善)VS敵(=強者=悪)
②外部要因による急激なパワーアップ
③過剰な報復
④ハッピーエンド(名声の回復)

これだ。4つ全部に当てはまったら、完全に黒。

このようなストーリータイプのキーワードは報復。心理学的に言えば「公正世界仮説」である。

公正世界仮説とは何か?大雑把に説明すると、因果応報の世界観である。「世界は基本的に公正につくられており、良い人には恩恵が、悪い人には天罰が下る」という強い思い込み(バイアス)である。人間はだれしもこれを気持ちいいと思うし、逆にこれに反する出来事に「あってはならない」と強い不快感を感じる。
感情はつねに、天秤を保つようにできているのだ。

だから、主人公は完全な善でなくてはいけない。その後の”正当防衛”のために、最初はいじめられっこじゃなきゃいけない。いじめっ子をどうやって退治するのか?パワーアップだ。具体的には、「先生や親にチクる」「ほかのいじめられっ子と結託する」「覚醒する」などの方法である。とにかく”先生”のような外部の権力を経由する”チート”を使うことで現状を打破するのだ。(ここが最もうさんくさくて、肝になる)。その報復は、直接的で、過剰であればあるほど、読み手が満足させることができる。そして最後には名誉を回復し、承認=居場所を得て、ハッピーエンド。これが<エンタメ>の構造である。

最近の例で言えば、『天気の子』なんかが当てはまるんじゃないだろうか?
主人公は父親に反抗して島を出るが、東京でもまた半グレ・警察・児童相談所・世間などの<大人>たちから身を追われる。そこにゲームチェンジャーである拳銃・超能力を使って立ち向かう。そしてやはり最終的には主人公とヒロインが勝利する。根本にあるのは、<大人>VS<子供>である。
ただ『天気の子』においては、<大人>と<子供>の中間が描かれていたり(主人公の上司)、完全なハッピーエンドでは無かったりするので、<エンタメ>との境界は意図的にボカされている。

<エンタメ>の歴史

このような物語はウケやすい。特に、今が苦しい人にとっては。

このようなタイプの物語は、感情に働きかける分だけ強力である。だからだろうか?昔から今にいたるまで、このタイプのストーリーは驚くほど多い。むしろ、このような物語こそが小説の原型だったんじゃないかと、思わせるほどだ。

例えば。旧約聖書の終末論も同じ発想に支えられている。「終末の”その日”には、これまで虐げられてきたユダヤ民族が覇権を握るだろう」という考え方。あるいは、ユダヤ教のメシア、キリスト教の天国・地獄の終末論、その他にも来世・天といった考え方がそうである。近代で言えば、マルクスの革命論も「不当にいじめられてきた労働者が結束して、邪悪な資本家を、暴力革命によって蹴散らし、共産主義をつくりあげる」という公正世界的なものである。

だがそれはニーチェが喝破したとおり、それはルサンチマン(弱者の強者への僻み)に過ぎない。現実で勝てない相手に、物語の世界で無双する。弱者のための奴隷道徳である。

抵抗する<アート>

さて、これまで<エンタメ>の話をしてきた。ならばそろそろ、その対極について話すべきだろう。

坂口安吾に『文学のふるさと』という短い随筆がある。

この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身うつしみは、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一ゆいいつの救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。
 私は文学のふるさと、あるいは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。

私も、文学、<アート>としての文学はこのような姿勢であるべきだと思っている。物語を読んで、明確な救いが用意されているわけでは無く、読者自身も、突き放された心地のするような物語。私は、そのような物語を美しい、と感じる。

例えば。誰の記憶にも残らないような、物語。誰も知らないところで、皆から忘れ去られることを宿命づけられているような、物語。勝利するよりはむしろ挫折してしまうような、物語。
『氷を抱きしめたような、切ない悲しさ』はやはり、そういう「報われなさ」にあると私自身信じているし、それこそがずっしりとした存在感をずっと放ち続けるのだろう。

さしあたって、このような物語の態度を<アート>と、名付けておこう。

ではいったい、このような<アート>を特徴づけるのは何だろうか?

「わからなさ」、だと思う。

リアルな話、現実はそう簡単に二分できるわけではない。善悪や美醜のどちらか、なんてのは妄言にすぎない。一面的な解釈に抗い、読み方によって多くの顔を見せる。場合によっては、読者を裏切り、突き放すような結末を見せる。敵を倒すどころか、挫折してしまう。何らかの矛盾を含んだ結末にたどり着く。そんなものが文学にふさわしいと思っている

なんでそんなことをするのか。

そもそも文学の目的が、「人を傷つける」ことにあるからだ。”不誠実”な物語は、それを読んだ人に深い傷跡を残す。あるいは「結局なんだったんだろう」という感慨を持たせる。その影響力は、多分ずっと続くはずだ。それが考えるきっかけになる。芸術も同じだと思う。そして、やがて、芽が出る。

現代思想のキーワードとしての<動物化>

さっき、<アート>が<エンタメ>の真逆で、わからなさを特徴としていると書いた。賢い人なら気づいたかもしれない。逆に、<エンタメ>が、わかりやすさを特徴にしているということに。

最近のエンタメの特徴。別の観点から言うと、それは徹底的な「わかりやすさ」である。善悪二元論しかり、敵|味方にラインを引いて、世界を二分化すること。それがわかりやすさの根源である。

この直観的な「わかりやすさ」は、現代の状況をよく反映していると思う。コスパ・タイパと言われるようになって久しいが、最近はとにかく徹底的に「無駄」を排除する傾向が強い。<エンタメ>は無駄を消せるところまで消し去った、究極の姿なんだと思う。誰だって、見なくていいなら不快を知らなかったで済ませたいもの。

でも、そのようにひたすら快と不快で世界を二分化して、快楽だけを求める態度は、全体主義的とさえいえるかもしれない。まさにナチスの政治学者カール・シュミットが、「政治とは、敵と味方を切り分け、徹底的に敵を殲滅すること」と定義したように。

現代思想を見てみると、ここ最近のトレンドに<動物化>がある。
<動物化>とは、なにかに没頭すること、欠如-充足という個人の欲求を満たすループにはまることだ。『ポリス的動物』としての人間らしさ(=社会性)にそっぽを向けて、自分の快楽に浸ること、である。

そのような点で、<エンタメ>は<動物化>のためのツールとも考えられる。感情的な側面を強調し、善悪の二項対立の外部、物語の外部から目を背けさせ、個人個人がずっと浸っていられるような。本能に身を任せて、快楽だけを享受していられるようなツール。

「もはや善悪は社会の問題じゃなくて、個人個人の内面の問題に過ぎない」という指摘も正しいのかもしれない。(その究極が「私刑」である。)

これまでの話からもわかるように、<エンタメ>の本質は「回復」にある。個人個人で、すっきりして、また苦痛に満ちた日常生活に戻るための。このタイプの物語は、<アート>とは逆のコンセプトで支えられているのである。

最終章 ~二項対立の脱却~

さて、最終章。私はこれまでずっと、<エンタメ>VS<アート>という二項対立の枠組みで語ってきた。しかし、実際、これらはつながっている。その2つは反対の極にあるというだけで、グラデーションのようになっている。だから完全に<エンタメ>的な作品だったり、完全に<アート>的な作品と割り切れることはほぼ無いだろう。
だがこの対立軸は、作品をよく見るうえで、(作品が真面目に向き合うに値するかを審査するうえで)、大いに役立つと思う。

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さんざん言ってきたことだが、私は<エンタメ>的な物語が嫌いだ。

だが、それは<エンタメ>が万人にとって無価値であることを意味しない。

私が言いたかったのは、要はケースバイケースということだ。疲れている人には「高尚な」文学よりも<エンタメ>が刺さるかもしれない。ほどよくスッキリして、きっと熟睡できるだろう。一方で、「ちゃんと作品と向き合いたい」、「自分探しをしたい」人たちにとっては、<アート>が向いている。

この区別をしっかり、自覚することが大事である。たまに<アート>の領域に、<エンタメ>的な評価を持ち込んで「まるで意味が分からん」「意味がない」と早々と評価を下してしまう人がいるが、それはお門違いである。

両者をしっかりと峻別することが必要。シンプルだが、これが最終結論だ。

コメント 感想をください!

  1. 遊ろぐさん、こんばんは!
    この記事、漫画家になろうとしてる私としてはすっっっごく為になりました!!!!!
    ありがとうございます泣

    それと、これ全く関係ない話なんですけど、遊ろぐさんのブログを見てたからか、友達にとある文学の説明をインスタのDMでした時に、「すごく文章が分かりやすい、スッと入ってくる」と褒められました!
    遊ろぐさんのおかけです!!ありがとうございました!!嬉

    • コメントありがとうございます!
      このブログも、今回の記事も役に立ててそうでよかったです。文章褒められたのは、ほんなさんご自身の文章力、努力のおかげだと思いますよ(˶ˊᵕˋ˵)
      ところで漫画のほうは順調ですか?
      いろいろ大変だと思いますががんばってください!

      • こんばんは、遊ろじさん!
        私は現在も漫画の練習めちゃくちゃ頑張っております!!笑笑
        でも、自分は、画力とストーリー構成どっちも自信がないので、映画の脚本術の本と、人体デッサンの本を親に内緒で買いました☺️

        頑張ってジャンプ漫画家になります!!
        遊ろじさんも、ブログ頑張ってください!応援してます☺️

        • ときどきpixiv見にいってます。映画の脚本術は「save the cat」しか読んだことないですけどあれ結構おもしろかったですよ
          私は絵がそんなに上手くないので羨ましいです
          がんばれ!

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