【承認病】べつにあなたじゃなくても、 /第二夜・承認をめぐる病

千の夜と一の夜
千の夜と一の夜新書読書
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だれかに認められたい。

私の存在価値を、認めさせてやりたい。

人は誰しもが承認欲求を持っている。別に現代人だけってわけじゃない。中世の騎士だってサムライだって名誉=承認を重んじていた。名誉欲はDNAに基づく人間の本能である。だけど現代で異常なのは承認欲求が、衣食住よりも優位に立っていることだ。危険なダイエットのために健康を崩した人が何人いたことか。
承認のためなら死ねる。その心理に心当たりは無いか。

千夜一夜の第二夜。今回の本は「承認をめぐる病」である。精神科医である斎藤環さんが書いた、主に若者のコミュニケーション・キャラ論を中心とした論文集である。中身はガチガチの精神分析込みの専門的な書物だった。何人がこの表紙に騙されたことか…と思ったら、どうやら著者もそのことを認知していたらしい。私とて例外ではない。かわいい~!と思って手に取ってみたら第二章が難しすぎて心が折れかけてしまった。
なんと、情けない

とはいえ一般的な読者も想定されて書かれているので、ちょっと難しいところは流すくらいの感覚で読むといいと思う。特に前半はおもしろいので必読。そのうえで精神医学の領域にも興味があれば、後半部のおもしろそうなトピックむ読むといいと思う。

すべてがキャラになる

人間関係がキャラ化している。

若者当事者としてはそれ以前の時代を知らないから、これが本当に最近の社会現象なのかは知らない。でも陽キャ/陰キャに始まり、天然キャラ、不真面目キャラ、天才キャラetcというカテゴリーが存在するのは事実である。大事なこと。承認はキャラに対して向けられる。決して「その人そのもの」では無い。ここに承認に対する葛藤がある。

では、キャラとは何か。

キャラとは、役割である。グループのなかでの役割。だからそれは個人個人で決定できるものでは無く、半自動的に押し付けられるものだ。人は自らキャラを演じているようで、その実演じさせられてる。

そしてキャラは確定記述の束からなる…らしい。確定記述とは例えば、「あなたは学生である」「あなたは〜と友達である」といった「である」で定義可能で、かつ個人を特定できるような属性の集まりとして構成されている。固有名、たとえばあなたの名前が、それ自体では何の意味も持たない刻印、ただの記号であると同時に言及可能な領域諸々を含む、あなたの全体を表すことと対比して考えてみるといいのではないか。キャラは、あなたそのものでは無い。だから、キャラへの承認はあなたへの承認では無いし、だから常に承認欲求は乾いているのかもしれない。

キャラ=役割において禁忌とされているのが、キャラ被りである。キャラ被りで居場所が脅かされることが無いように、学生においては階層構造をもったスクールカーストや、棲み分けとしてグループが構成される。そのスクールカースト・序列は、コミュ力の1点においてのみ評価されるのが普通だ。今では「カースト」なんて言葉はあまり聞かないし(少なくとも私の今通っている日比谷高校では)、時代遅れだと思われるかもしれない。だけどこれは、「カースト」や「1軍2軍」といった強い言葉が、陽キャ・陰キャという言葉に置き換わっただけに過ぎない。(キャラの分析は第1章のAKB分析が、すごくおもしろかった)。

そしてキャラが無いことは居場所が無いことを意味する。だから誰でも、何かしらのキャラになる必要がある。私は望んでこのキャラを演じている!と思っている人でさえ。演じている⇒演じさせられている。一度、キャラが勝手に割り当てられてしまったら、それを変えることはほとんど不可能である。その帰属集団を抜け出すまではこのギャップに苦しめられるだろうし、たとえいじられキャラなどの不本意な役割であっても、負の承認という形での「承認」によって、コミュニケーションに身を置くことを赦されているのだとしたら、喜んで、引き受けなければならない。

そしてキャラはときに「非成熟」としてあらわれることがある。私が大いに驚かされたのは、落ちぶれていく日本で若者の幸福度が高いのは成長のビジョンを捨てたから、という主張であった。今の多くの若者は、成長、というよりは「変化」そのものが全く信じられない。今と同じような生活がずっとつづくと思っているし、だから大きな期待外れが起きることもなく、今がまずまずの状態ならば幸せだし、逆に今の生活に満足していないのならば、ずっとこのままなんだと、不幸のどん底で暮らし続けなければならない。要は、二極化しているのだ。幸せと不幸せが。これが高い幸福度の秘訣であって、この非成熟は、キャラとしての同一性のためにあらゆる変化を拒むことと関連している。(エヴァなどの分析を通して語られる)

今のところ悪しき制度としか思えないようなキャラシステムは、なぜ生まれてしまったのだろうか。
それは「大きな物語」が瓦解した後の、コミュ力至上主義と関連している。

コミュ力至上主義の時代

「大きな物語」とは何か。(ちょっと現代思想系に詳しい方であればご存じかもしれない)
大きな物語とは、人々が広く共有している思想、連帯のよりどころとなるような世界観である。たとえば共産主義とか、キリスト教とか、ハルマゲドンによる救済とか、ナショナリズムとか。あらゆる価値を保証する、(ニーチェ風に言うと)「至高の諸価値」である。

そのような思想はソ連が崩壊した20世紀後半に崩壊して、今は客観的評価軸が崩れて、「~のために行動する」の~の部分、すなわち共同的社会的な目的が欠けてしまった。普遍的な価値なんて無いのだから、そこで間主観的な価値に焦点が移った、と考えられる。間主観的な価値とは、AとBの間、関係性において成り立つ価値ということ。すなわち、別個の人間関係においてなりたつコミュニケーションそのものに価値が与えられ、そのコミュニケーションをより多くの人と取り結べること、つまりコミュ力が至高の諸価値になったのである。

「構造と力」より引用

視覚的に表すと、すべての要素を中心から吊り支える大きな物語が崩壊して、すべてが関係性=コミュ二ケーションに還元されてしまう過程は、左の図のⅢからⅡへの退行に似ている。

キャラの重視とコミュ力偏重主義の趨勢は関係している。誰とでも簡単にコミュニケーションを結ぶための戦略がキャラ化だからだ。ひとりひとりが集団内でひとつの役割を演じるだけで、コミュニケーションに参加できるシステム。「お前ってこういうキャラだよな」「そういうお前はこうだよな」というキャラのいじり合い。再帰的に互いの役割を通じて存在確認をする円滑な会話。キャラが文脈をつくる。だからキャラは徹底的にわかりやすくあらねばならぬ。

承認欲求も全面化してきている。働くことの目的が、お金を得るよりも承認を獲ること、という指摘はすごく実感に合う。承認とは欲望されることの欲望である。斎藤さんはヘーゲル=ラカンの用法に従って、かなり踏み込んだ内容の「承認」の定義を示していた。が、私は知識不足ゆえにあまり深堀りできない。ごめんなさい。

すごく簡略化する。承認=欲望されることの欲望である。そしてそもそも承認は矛盾を含んだ概念である。<私>は<あなた>に存在を認めさせようと思うけど、承認されている人としての<私>という像は、承認の担い手である<あなた>抜きには成立しない。そうして二者関係では常に、互いに相手よりも優位に立とうという思惑が交差する。承認は必ず相互承認の形をとる。

承認を得たいけれども、得られない。そんな承認病の表れかたには三タイプあるらしい。「承認への葛藤」「承認への行動化」「承認への無関心」。承認を得たいけどどうせ得られないでもだけど認めてほしいでもどうせ無理だ…というぐるぐる回る思考、認められるためならなんだってしてしまう態度、はなから認められることを諦める態度である。

斎藤さんは、承認病を回避するための方法を三つ挙げている。

①他者からの承認とは別に、自分を承認するための基準を持つこと
②他者からの承認以上に他者への承認を優先すること。
③承認の大切さを受け容れつつも、ほどほどに付き合うこと。

実行するのは容易くない。すごく抽象的な指示だから。でも一つ、方針として持っておくのにはいいんじゃないか。

それとは少し異なるのだが、内省・コミュニケーション・行動の三すくみの概念は、心の健康を保つうえですごく参考になると思った。このなかから足りないものを少し補うことをときどき意識してみるのは、健全な人間関係を築くうえで役に立つと思う。

独語の読後 

~固有性と特殊性~

ーーー読み終えた後のちょっとした独り言。

私が特に気になったのは、固有性特殊性の話。この二つはすごくよく似ている。どちらも”unique”で一括できてしまうのだから。

固有名、あなたの名前は、それ単体では仮初の名前・無意味な刻印にすぎない。あなたの固有性=あなたの代替不能性は、「~である」という言及可能性に抵抗する。あなたはあなたでしかありえない。私は私だ。どれだけその人の特徴を集めたとして、それによって「あなた」の代理物をつくりあげることはできるかもしれないが、本物の人間を構成することはできない。これが固有性。

一方、特殊性とは他者との差異だ。あなたを固有なオンリーワンたらしめているものは、あなたが他の人と比べて「頭がいい/悪い」「運動神経がいい/悪い」「ゲームがうまい/下手」「こういう容姿である」などといったことがらの集合である。

こうしてみると、特殊性が他の人との比較で成り立っていて言及可能・代替可能であるのに対して、固有性はその人そのものを対象としていて言及不可能・代替不可能性を指し示すものとして、正反対の位置を占めているのがわかるかもしれない。(ここらへんは、前述する東浩紀などの議論を知らないのですごく独りよがりな解釈かもしれないが)。

ここをはっきりさせたい。(無論、これも私の自由な解釈空想にすぎない。)

たとえば。なにかの折に、「私じゃなくてもよかった」と感じることはないだろうか。たとえ私がいなくとも。「必要条件」を満たす誰かが代わりを果たして、社会は回り続けるのだろうという予感。私がここにいる必然的な理由は無くて、すべては偶然だった……。これが特殊性に基づく見方である。

逆から見たら固有性になるのではないか。私がここにいることは必然的だった。もしかしたら最初はだれでもよかったのかもしれないけど、実際にそれを行ったのは私だし(十分条件)、そういう意味では私の存在は必要不可欠で必然的だった。

この偶然性と必然性の両価性をどう考えるか。幸いなことに私はぴったりの言葉を知っている。「偶有性」である。半分必然・半分偶然。事実としてはそのとおりなんだけど、別の世界線も考えることができたはずだ…という感じでの偶然性かつ必然性を示す。

ロマンチックに言うならば「運命」でもいい。

斎藤さんが言うには、キャラは特殊性によってのみ支えられていて、固有性を抑圧しているのだと。たしかにキャラは記述可能性で支えられているし、それが役割である以上、条件を満たしさえすればだれでもよかったなんてことになりかねない。

今の私たちのコミュニケーションに共通する空気は、突き詰めればこの「だれでもよかった感」への不安ではないだろうか。私の皮相じゃなくて、私そのものを見てほしい。そういう点では、私たちと秋葉原事件の犯人には通底する部分がある。もっと深いコミュニケーションがあるはずだ、という幻想、欲望。

すべてを偶然として捉えているのならば、いくら承認を得たとしても、「私は望まれてここにいる」という実感は得られないのだろう。

~「である」と「する」の倒錯~

ところでさらに空想を飛躍させると、このキャラによるシステムは独裁政治の構造と似ている。
独裁政治のもとでは、独裁者・幹部・市民の三種類の人間がいる。独裁者の命令を受けて、幹部たちがそれを実行する・実行させる。このシステムが機能するためには人数比が大切なのだ。幹部は少なく、市民は多くいる必要がある。市民は常に幹部に成り代わろうとしている。その圧力下では、幹部は独裁者から受けた命令を「どうせ誰かがやることになるのなら」と実行せざるをえない。

ブラック企業も同じだ。「資本論」にはこんなことが書いてある。余剰人口(失業者)がいることによって、「お前の代わりはいくらでもいる」と正社員に刷り込み、たくさん搾取できるのだと。

現代の問題に置き換えるなら、これがコミュニケーションという友情の場で起きていることだ。たとえ不本意なキャラが割り振られたとしても、誰かが自分の役割を代わりに行ってしまうのではないか、私が排除されてしまうのではないかという不安。それゆえにキャラの型から離れることができない。

社会ぐるみの「条件付き承認」を、それでも私たちは生きなければならない。丸山眞男風に言えば、コミュニケーションの領域で「する」と「である」の倒錯が起きてしまっている。全人格的なあなたとわたしの関係から、あなたのキャラとわたしのキャラへの関係への変化。あなたはキャラを演じ続ける限りにおいて承認をえつづける。しかしもしそこから逸脱しようものなら、それまでの承認は取り消されてしまうーーー。

まったく、世知辛い。世知辛い世の中だ。

nya—

書きすぎた。めっちゃ疲れた。

今回はここまで。グッド・バイ

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