”平等”主義アンチ

考察
考察
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「皆が等しい権利を持つべき」という平等主義には大いに賛成。だけど、「皆が生まれながらにして同じ資質・能力を持っているはず」と考える誤った”平等”主義は大嫌いだ。平等と”平等”。この2つは明確に区別されなければならない

”平等”=偏見。これが堂々とまかり通っているのだから、おかしなものだ。

①”平等”主義はどうして間違いか?

かの福沢諭吉曰く、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」だそう。ほんとうに?

もとの文脈においては、「人のつくりは本来平等であるはずなのに、階級の差があるのは、勉強量の差によるもの」というお話だったハズ。しかし端的にこれは間違いである。行動遺伝学による反証。

そもそも人の能力というのは、だいたいがDNAによって規定されている。学力に関しては7割が遺伝的要因であるように。そして遺伝は、能力のみならず性格にももちろん身体的特徴にも色濃く映し出される。犯罪者の子供は、法を破る蓋然性が高い。…結構、ショッキング。人は生まれながらに資質が異なること、すなわち、ある特定の能力に関しては「天は人の上に人を造り、人の下に人を造る」場合があることも認めなくてはなるまい。(根拠は「無理ゲー社会」(橘玲・著)に詳しい)

運動神経・身長・太りやすさ・顔立ちなどといった身体的特徴の差は遺伝の影響が大きい、ということは衆目の一致するところだ。だがしかし、その遺伝の影響が人の内面にまで及ぶ、ということに関しては皆認めようとはしない。認めたくないからだ。

②”平等主義”の問題点

”平等”主義は、人類の生来の特徴は生まれた時点では同じだとする考えだ。みんなが、努力次第でなんにでもなれる。聞こえは良いが、”平等”を標榜することによって、知らず知らずのうちに差別を招いてもいる。僕から言わせれば、それこそが危険思想である。

①意志への還元・自己責任論
皆が”平等”であるなら。あなたが受験やら就活やらに失敗したとして、それは個人の責任ということになる。他の人と同じ資質を持ちながら結果に差が出たのなら、それは努力が足りなかったから。意志が弱かったから。人生の失敗は、あくまで「個人の自由な選択」の結果であり、自己責任へと還元されてしまう。

なんと冷酷な差別だろうか。これが”平等”の行く末なのか?

そもそも、人より勉強をしてもテストで低い点数を取ってしまう人もいる。いくら柔軟体操をしようとも、長座体前屈が30cmしか行かないような人もいる。どれだけ牛乳を飲もうとも、身長が伸びない人もいる。(後半は僕の経験談)

そもそも初期値が違うのだから、何でもかんでも努力でどうにかなると信じる戦時の根性論は、とっとと消えてしかるべきだ。「才能の差は努力量でカバーできる」?…ナンセンスの極みである。そもそも集中力でさえも、生来の個人差があるのだから。

②異端の排除
「皆が平等であるべきだ」という神話が広く共有されている社会では、異端児を徹底的に排除する傾向がある。1つの目標を目指す集団では団結力が求められる。団結というのは、外部からの差異化と集団内の同一化という2つのベクトルの圧力によって支えられる。そのとき、不純物が混ざってしまったら集団の同質性を担保できない。だから団結のためにはまず不純物が取り除かれなければならない。

元来、われわれホモ・サピエンスはよそ者を見つけるのに特化しているという。自己家畜化という進化の結果であり、2歳児でさえも場のルールに従わないものをすぐに見つけ出すという。集団は同質性を好む。異端の排除は必然の帰結。近代の国民国家はその最たる例。単一民族・単一言語・単一文化で構成されるべき、という考えがホロコーストや民族虐殺を生んだ。

「ファッションの現象学」ではないが、学校で制服を着せるのも同様の理由だ。統率・結束。学校は社会の整流器としてその役割を求められる。だからこそ逆に、私服登校の学校は往々にして校則が緩い。それは校則が緩かった結果として私服登校になったというよりかは、私服登校であるがゆえに集団の結束意識が薄く、強固な規則をつくれなかったという逆説も考えられる。(少し話それちゃった)

「皆が”平等”であるべき」という考えは、同質性への強い圧力の現れである。それは差別の裏返しに他ならない。ちゃんとした平等というのは”差”を等しく認めることではないのだろうか。

③”平等”主義の舞台装置

①能力主義
能力主義は、単に高い能力を持つ人を出世させよう、という指針であるだけではない。低能力の人を高い地位から降ろす、ということも同時に行われなければならない。能力主義は功利主義によって正当化されている。実際、それでパフォーマンスが上がるのだからよいことではある。だけど降格させられた人はどうなるのか。「自己責任」という言葉がよく聞かれる。能力主義は自己責任とセットである。

その原理はこうだ。「努力は個人の自由な選択によって為される。しかし努力をするかしないかは本人が選んだことであるため、決断者が責任を負うべきである。能力が低い=努力をしないという決断の結果=自己責任である」、と。だけどこれは詭弁だ。もし皆が生まれた時点で同じであれば、筋の通った話だった。しかし、実際はそうではない。自己責任では消化しきれない曖昧さをもつ。

だから小さな政府的な、社会的弱者も自分で何とかしてね~、という発想は偏狭と言わざるをえない。いずれ破綻してしまうのだろう(アメリカの一部ではすでにその傾向がある)。

②階級区分の正当化
現在、日本には(そして世界には)階級区分がある。ぼんやりとしたボーダーラインではあるが、いわゆる成功者と呼ばれるようなお金もちがいる。彼らが成功者である根拠は、彼らが勉強して、いい学校に行き、社会に出てからも努力を続けたからだ、とされている。だから彼らが上位階級にいることに誰も不満を持たない。

なぜか?それが差別と区別の違いだからだ。

貴族制においては、貴族階級というものは生まれながらにして決まった。これは差別である。人種差別も性差別も国籍差別も障害者差別も、その差別たるゆえんは、「本人が自分の意志で選ぶことのできない条件付けによって、カテゴライズされている」というところにある。しかし現在の能力主義や階級分けは、差別ではなく区別である。それは「本人の意志・決断によるカテゴライズ」だからだ。だからむしろ奨励さえされている。

だけど何度も言っているように、本人のあずかり知らぬところで、努力・意志というものの限界は決まっている。お勉強さえすれば上の階級に行ける、は決して万人に開かれたシステムではない。だから階級区分を正当化する区別は、極端な話、若干の差別を含んでいる。だから”平等”主義がウソだということは、国家機密級のトップシークレットなんだと。(本質的にはさっきの能力主義の項と同じ話だ。さっきのは自己責任には還元しきれない、という観点での批判である。今のは、”平等”主義の正当化が詭弁である、という批判だ。)

③気づきたくないから
ラスト!読んで字のごとく、自分の才能も努力さえも、生まれた時点で決まっているということに気づきたくないから。結局何だかんだ言って、これがもっともな気がする。

自分の未来がある程度決まっていたら、皆やる気をなくすだろう。才能アリならまだいい。だけど、自分が才能ナシと気づいたら絶望せずにはいられない。(ライプニッツの予定調和やラプラスの悪魔といった決定説を想起させる)

とりあえずその機密に気づかないフリをすることで、上位階級の人々は自尊心を保っていられるし、解階級の人々も自分の可能性を信じて僻まずにいられる。もし、これが崩れたら。世の中皆ルサンチマンだらけ。やだやだ。

と、いうわけで、このような大掛かりな舞台装置によって遺伝決定論は巧妙に隔離されている。だけど一つ忘れないでほしいのは、生まれたときからすべてが決まっているわけじゃないってこと。70%が才能だとしても30%くらいだったら何とかなる。大事なのは、こうした事実を引き受けたうえでどのような未来を構想するかだ。(事実を隠す姿勢はいずれ無理をきたすだろう…、裸の王様みたいに)もし一つの能力が人より劣っていたとして、他の能力も同じだとは限らない。一つの戦略として、苦手なところはわりきって、得意なところを伸ばす、という特化型になってみる、というのもアリかもしれない。

結論

と、まあアレコレ述べてきたわけだが、ここで言いたかったことは一つだ。

「人は生まれながらにして平等ではない。」

そんな当たり前のことを当たり前であると理解していただければ、それで結構だ。だけど実際これを理解していない人が結構いる。テレビ出演をしていた自称・教育学者が「教育を施せば施すほど、どの子供も伸びる」と言っていた時はさすがにわらった。誰でも努力すれば頭がよくなる、というのは一つのイデオロギーにすぎないことを理解されたし。大器晩成タイプもいるだろう。伸びにくい人もいる。だから教育に費用をつげこめばつげこむほど良い、というのはさすがに安直すぎる。だが近年の学校制度も本質的にはこれと同じだ。「皆が質的に同じなのだから、大事なのは量であって、国家の役目はその量をこなさせて優秀な犬を造ることだ」と。誤った”等しさ”を振りかざすのも大概にせい。

大事なのはそれをどう受け止めるかだ。

(こっから余談)
今回の”平等”主義はなにかと実存主義を予感させるものだった気がする。”平等”主義というのはそもそも反・階級主義に端を発するものであったはずであり、人間の共通性、を強調するものであった。だから人の”本質”・イデア的な生き方を否定した。その結果として、個人個人の「実存」、自由・選択が重視された。「人はみずからの道を切り開ける」なんてのは、まさしくリベラルの「努力次第でなんにでもなれる」を想起させる。だけど忘れちゃいけないのは、その意志の力もまた不可視の構造によって縛り付けられている、ということである。そもそも意志の力さえも遺伝子レベルである程度制御されている、というものは構造主義による自由意志の否定を思い出させるものだ。

ではでは今回もこんなところで。グッド・バイ!

コメント 気軽に自由に感想を寄せてね!

  1. ほんな兼ミニトマトそーぷ より:

    その考えよく分かります!
    私も、「平等」という言葉に疑問を持っていた者です。

    我々は「平等」を叫んでいるが、
    実際は「平等」という同調圧力に従っているだけではないか。

    興味深かったです!
    次回も楽しみにしています!

  2. 遊ろぐ 遊ろぐ より:

    僕は、人間がみんな「平等」で、その認識が共有された結果、逆にみんなが「平等」でなければならない、という展開は明確に間違いだと思っています。それは多様性に真っ向から歯向かうものでもあります。

    そのような「平等」が、均質化をさすだけなら、くだらねえって捨ててやりたい。僕としては、「平等」という言葉よりも「対等」「等権利的」などの言葉のほうが適切なんじゃないか、とも思えてきます。(単なる提案ですが)。

    いつもコメントありがとうございます‼

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