ヨルシカの新曲「アポリア」のMVが公開されたので、今回はその考察です。
一応断っておくと、あくまでも随分と恣意的な解釈です。こういう考察もあるんじゃないか?と思ったら、コメントください。
はじめに
ぜひ、この記事を読む前に、MV概要欄の文章を読んでほしい。(一応、この記事の最後に引用している)
時間が無い人のために要点だけまとめると……
気球=知ること。気球が上に上にと飛ぶように、「僕」は先へ先へと知ろうとするが、気球は宇宙には行けない。同様に「僕」が知りえることにも限界がある。「僕」も宇宙に行きたいと願っているが、たどり着けないでいる。知りたいvs知れないという二項対立が、解決不能な難題(=アポリア)として「僕」の前に立ちはだかっている。
そして人間は知ること・経験することによって、前に進み続け、真の意味で「生きる」ことができる、と「僕」は考えているのだ。
ここで一つ仮説を立ててみる。地面は現実の僕たちの生活、宇宙・海はまだ知らない世界。飛ぶことは、既知の領域から未知に思いを馳せること=知ろうとすることなんじゃないか?魚は、停滞しない川(思考)にだけ住む、知識。月は真理。気球は月になろうとする、人類の知・試行錯誤。
以下これを軸に考察する。
1番
まずはMVを見てみる。
最初の街は砂に沈んでいる、「砂上の楼閣」。
礼拝堂の天井画は星座で、そのドームの頂点には太陽を思わせる円がある。彼女はそこに手を伸ばそうとする。
壁画の前を歩くシーンでは、右側の絵がまるで「楽園追放」のよう。だとしたら後ろにあるのは禁断の果実、知恵の実。
これらを咀嚼すると、さっき書いたようなアポリアが浮かび上がってくる。「禁断の果実」のように、知ることすなわち罪であり、すべてを知ることはできない、という難題が。
生活と地続きの地上から、一歩、想像の翼(グライダー?)を広げて空に飛び込むことは、思考すること自体を表す。
歌詞に目を向けよう。「描き始めた」などから、「あなた」は絵を描いているんだとわかる。さらに一歩考えると、描くことと知ることも一緒だと捉えられる。知ることはすなわち、世界をモデルとしてとらえ、脳内キャンパスに投影することなのだから。
サビのシーンでは、二つの月が見える。歌詞を聴くと「僕らは気球にいた 遠い国の誰かが月と見間違ったらいい」とある。もう一つの月は、人類の構築物としての知識の体系なんじゃないかな。彼女はその「知識」の上から俯瞰的に地上を眺めることができる。「長い夢」というのは、頭のなかの世界、想像だ。
「誰かが月と見間違ったらいい」とあるが、それは気球が月になり代わろうということ。気球という知の体系が、月という真理に近づいてほしいってコト。
海=宇宙、魚=星、と考えてみてもいいかもしれない。海も宇宙も広大な世界。そこにわけいって魚や星をつかもうとするが、それらはするりと両手を通り抜けてしまう。「僕」は宇宙や大海という広大な未知の世界に触れて、魂が跳ねるほど感動し、その実体である魚に見惚れる。
2番
手を伸ばして星空に飛び込んでいく様は、まさに思考、想像そのもの。
「描き始めた」で、また現実へと引き戻される。線を間違えたりしながらも、その「絵」は確実に完成へと向かいつつある。「あの星もあの空も実はペンキだったらいい」という表現はなんとも詩的でうっとりする。絵というのは世界を視覚的に切り取ること。星空もペンキだったらいいということは、星空が一枚の絵だったらいい、ということ。空には手が届かないが、絵なら手に入れることができる。その点、この表現は、「自分も星空のような美しい絵を描けたら」あるいは、「この星空のような世界を、思考というフレームのもと、すべて自分の脳内に取り込めたら」という願望ではないか?
2番のサビに映る、巨大な建物は言うまでもなく、バベルの塔を表現している。皆さんご存じだと思うが一応解説すると、バベルの塔は創世記に出てくる話で、人類が天まで届く塔を建てようとしたことを、神が傲慢だととがめて人類の言語をバラバラにして工事を中止させてしまった話だ。
そうすると直前の、棍棒で争いあう二人は、言語を乱されて対立する二人、意見の対立を表している。(天動説と地動説か?)
バベルの塔の地面で、かつての人々の営みを空想するシーンでは、連綿と続く知の探究への思いを馳せているのだろう。(男のポーズは「洗礼者ヨハネ」の絵みたい)。ひとさし指の指す先、天へと彼女は昇っていく。その目指す先が、いわゆる「真理」のシンボルたる月なんじゃないか。
3番
バベルの塔から宇宙に飛び立っていくシーン。そのうち翼は消え、生身で泳いでいくことになる。これは飛行自体が、一種の比喩でありのままに考えることの比喩であるから成り立っている。
「広い地平を見た 僕らの気球は行く この夢があの日に読んだ本の続きだったらいい」。広い地平も、空や海と同じニュアンス。一つ違いを考えるとしたら、海がまだ知らない領域だとしたら、地平線は、まだ知らないことさえ知らない領域、なんじゃないか?水平線を見て海がまだ続いていることを知るように、知識の大海がもっとずっと広いことを知った、そんなところだろう。
「あの日に読んだ本の続きだったらいい」。あの日に読んだ本、という当時の知の最先端を自分が超えていくことを願い、まだ知らないそらの領域を、一歩一歩開拓していけることを喜んでいるのだろう。最初に掲げた文章の、「新しい何かを知れないことは停滞です。」の部分とも符合する。知ること、すなわち生きることとその喜び。
MVに話を戻そう。だんだん月に近づいて行くと、それが人工物であることがわかってくる。1番で望遠鏡で月を覗き込むシーンがあったはず。従来、目視でしか観察できず、神秘に包まれていた月を、双眼鏡越しにつぶさに見れるようになったことを、「月に近づいた」と表現しているんじゃないかな。真理に迫ってる。
ラスト!
「水平線の先を僕らは知ろうとする」。見えない部分を、推し量ろうとすることのたとえ。「白い魚の群れをあなたは探している」。星も魚も同じように、未知の領域にある、新しいことがら。そういった探求を「あなた」は続けていく、という形で曲が終わっていく。
最後は、白い魚=星たちに囲まれるように寝転んで、あなたは空想に目を閉じるのだ。
まとめ
今回は「アポリア」の考察を試みた。考察をしてみたはいいが、この曲の全部を理解したとは思ってない。いまだにぼんやりしているところがある。それをまたいつか、時をあけて考えてみるのもいいかもしれない。
別の読みの可能性としては、この曲が「チ。」の主題歌となってるのだから、キリスト教と地動説に照らし合わせて読んでみてもおもしろいかもしれない。
そして今回記事を書いていて、僕は「イカロスの翼」の話を思い出した。バベルの塔、禁断の果実、砂上の楼閣。それぞれ、人間のすべてを知ろうとすることの傲慢さに対して神が罰を下した話だ。イカロスの場合、彼はろうでできた翼で空を飛ぼうとして、太陽に近づきすぎたあまり、ろうが溶けて死んでしまう。すべてを知ろうとすることは不可能だ。僕たちは、大空に向けて飛翔するが、その試みは完全に成功することはない。常に、重力にひきつけられ、最期には落ちることが確定しているのだ。それでも、空に、月に向かっていこうとする強い意志を、僕はこの「アポリア」に見出した。
それでは、今回はこの辺で。夜遅くまで考察していたから、明日学校遅刻しちゃいそう。ヤババ。
グッド・バイ
(概要欄より引用)
拝啓
暑い日が続いています。
水曜日の図書館で気球の本を読みました。先生は気球の仕組みを知っていますか?熱した空気は、冷たい空気より軽くなります。だからそれを布で受けて、布に取り付けたカゴごと上昇するんです。実は調べてみるまでちょっと魔法みたいに思っていたんですが、知ってみれば何だか単純な理屈に思えて、少しだけ寂しくなりました。よく考えたらわかることなのに。
僕は気球は、知ることと似ていると思います。僕の持つ知りたいという欲求は際限がなくて、気球もただ上に昇ることだけを目的としています。人生で知れることの量には限りがあるところも、気球と似ています。気球で宇宙には行けませんから。
もしかしたら、僕は宇宙に行きたいのかもしれません。先生はいつかの返信で言いましたよね。人間は経験によって形作られると。人間は知ることが出来るから、日々の経験があるから、心が五感で世界を蓄えて思考を豊かにすると。 なら、知らないことは死んでいることと同じです。新しい何かを知れないことは停滞です。停滞している川は川にはなれません。それは、ただの水になるんです。何処へも行けず、流れを止めて澱みを待つだけの水です。僕は時々それを考えて何だか、酷く、恐ろしくなります。まだ知らない何かが世界には溢れていて、きっとそれは僕の人生の総量よりもずっと多いんです。先生、僕の気球は宇宙には行けないでしょうか。 いつか何かの本で見た、アポリアという言葉を思い出します。解決の付かない問いのことだそうです。僕の「知りたい」を先生はアポリアだと思うでしょうか。
詩はいつもと同じように別紙で同封してあります。お体にお気をつけて。
敬具
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