【善悪の此岸】氾濫する「復讐物語」の欲望

考察
考察読書論
この記事は約8分で読めます。

私には、嫌いなストーリーの”型”がある。そして最近至るところでその型は増殖しまくっている。

たとえば「誰それに攻撃されたから仕返ししてやったわ笑」とか、「ある日急に覚醒した件」とか、「実は能力を隠していた」とか「異世界で無双する」とか。
もううんざり。

これだとただの愚痴なので、今回はそのバックグラウンドを考察していこうと思う。
なぜこのような話が流行るのか?

このように善悪を簡単に割ってみせる<断定型>的物語と、そうでない物語、つまり善悪の曖昧さ・決定不能性を重視する<ゆらぎ型>物語の境目はどこにあるのか?

(以下、この2つのストーリータイプを<断定型>と<揺らぎ型>として整理する)

ひとつ、先に結論を挙げるなら、<揺らぎ型>の目的は「あえて人を傷つけること」であり、<断定型>の目的が「回復」だという、指向性の違いである。

回復

(2025/7/11追記:以前使っていた「エンタメ」と「アート」という分類は低俗/高尚という価値判断を含んでしまっている、という指摘を受けてその通りだと思ったので修正しました。あわせてタイトルも変更しました)

氾濫する<断定型>

と、いうことでまずは<断定型>の内実を深く見ていこう。そのような物語には、私が経験的に感じた4つの特徴ある。

①主人公(=弱者=善)VS敵(=強者=悪)
②外部要因(チート)によるパワーアップ
③過剰な報復
④ハッピーエンド(名声の回復)

これだ。4つ全部に当てはまったら、それはかなり<断定>よりの物語と言えよう

このようなストーリータイプのキーワードは報復。心理学的に言えば「公正世界仮説」かもしれない。

公正世界仮説とは大雑把に説明すると、因果応報の世界観である。「世界は基本的に公正につくられており、良い人には恩恵が、悪い人には天罰が下る」という強い思い込み(バイアス)である。人間はだれしもこれを気持ちいいと思うし、逆にこれに反する出来事に「あってはならない」と強い不快感を感じる。
感情はつねに、天秤を保つようにできているのだ。

だから、主人公は完全な善でなくてはいけない。その後の”正当防衛”のために、最初はいじめられっこじゃなきゃいけない。いじめっ子をどうやって退治するのか?パワーアップだ。具体的には、「先生や親にチクる」「ほかのいじめられっ子と結託する」「覚醒する」などの方法である。とにかく”先生”のような外部の権力を経由する”チート”を使うことで現状を打破するのだ。(ここが最もうさんくさくて、肝になる)。その報復は、直接的で、過剰であればあるほど、読み手が満足させることができる。そして最後には名誉を回復し、承認=居場所を得て、ハッピーエンド。これが<断定型>の構造である。

最近の例で言えば、(<断定>要素は薄いが)『天気の子』にもその側面があったんじゃないだろうか?

(⚠ネタバレ含みます)
主人公は父親に反抗して島を出るが、東京でもまた半グレ・警察・児童相談所・世間などの<大人>たちから身を追われる。そこに”チート”である拳銃・超能力を使って立ち向かう。そしてやはり最終的には主人公とヒロインが勝利する。根本にあるのは、<大人>VS<子供>である。
ただ『天気の子』においては、<大人>と<子供>の中間が描かれていたり(上司にあたるおじさん)、ハッピーエンドとバッドエンドの狭間に落ち着いたりしてるので、<断定型>と<揺らぎ型>の境界は意図的にボカされているとも感じられる。ここで主張したいのは、あくまでそれら2つの概念は連続的に繋がっているものであり、完全な<断定型>あるいは完全な<揺らぎ型>物語は存在しないということである。

<断定型>の歴史

このような物語はウケやすい。特に、今が苦しい人にとっては。なぜなら<断定型>は強く感情に働きかける作用があるからだ。それゆえ、昔から今にいたるまでこのタイプのストーリーは驚くほど多い。むしろ、このような物語こそが小説の原型だったんじゃないかと、思わせるほどだ。

例えば。旧約聖書の終末論も同じ発想である。「終末の”その日”には、これまで虐げられてきたユダヤ民族が覇権を握るだろう」という考え方である。あるいは、メシア信仰、天国・地獄、来世・天、最後の審判といった宗教的概念がそうである。近代で言えば、マルクスの革命論も「不当にいじめられてきた労働者が結束して、邪悪な資本家を、暴力革命によって蹴散らし、共産主義をつくりあげる」という公正世界的なものである。

だがそれはニーチェが喝破したとおり、ルサンチマン(弱者の強者への僻み)にすぎないのかもしれない。

現実で勝てない相手に、物語の世界で無双する。「いつか英雄が来て、虐げられたあなたを救う。だから、弱くあれ」。弱さを肯定するために、強さを悪であるとみなす。弱いことを善だとして行動を拒む。弱者のための奴隷道徳にすぎないのかもしれない。

<揺らぎ型>の理想

さて、これまで<断定型>の話をしてきた。ならばそろそろ、その対極について話すべきだろう。

坂口安吾に『文学のふるさと』という短い随筆がある。

この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身うつしみは、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一ゆいいつの救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。
 私は文学のふるさと、あるいは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。

私も、文学、<揺らぎ>としての文学はこのような姿勢であるべきだと思っている。物語を読んで、明確な救いが用意されているわけでは無く、読者自身も、突き放された心地のするような物語。私は、そのような物語を美しい、と感じる。

例えば。誰の記憶にも残らないような、物語。誰も知らないところで、皆から忘れ去られることを宿命づけられているような、物語。勝利するよりはむしろ挫折してしまうような、物語。
『氷を抱きしめたような、切ない悲しさ』はやはり、そういう「報われなさ」にあると私自身信じているし、それこそがずっしりとした存在感をずっと放ち続けるのだろう。

ではいったい、このような<揺らぎ>を特徴づけるのは何だろうか?

「わからなさ」、だと思う。

リアルな話、現実はそう簡単に二分できるわけではない。善悪や美醜のどちらか、なんてのは妄言にすぎない。一面的な解釈に抗い、読み方によって多くの顔を見せる。場合によっては、読者を裏切り、突き放すような結末を見せる。敵を倒すどころか、挫折してしまう。何らかの矛盾を含んだ結末にたどり着く。そんなものが文学にふさわしいと思っている

なんでそんなことをするのか。

そもそも文学の目的が、「人を傷つける」ことにあるからだ。”不誠実”な物語は、それを読んだ人に深い傷跡を残す。あるいは「結局なんだったんだろう」という感慨を持たせる。その影響力は、多分ずっと続くはずだ。それが考えるきっかけになる。芸術も同じだと思う。そして、やがて、芽が出る。

現代思想のキーワードとしての<動物化>

さっき、<揺らぎ>の物語が<断定>の真逆で、わからなさを特徴としていると書いた。これは逆に言うと、<断定型>は、わかりやすさを特徴にしているということである。

最近のエンタメの特徴。別の観点から言うと、それは徹底的な「わかりやすさ」である。善悪二元論しかり、敵/味方にラインを引いて、世界を二分化すること。それがわかりやすさの根源である。

この直観的な「わかりやすさ」は、現代の状況をよく反映していると思う。コスパ・タイパと言われるようになって久しいが、最近はとにかく徹底的に「無駄」を排除する傾向が強い。結果として、物語要素のあらゆる塗装は剥がされ、露骨な<二元論>の鉄柱が残った。物語の本質である葛藤の、いわば究極形。誰だって、見なくていいなら不快を知らなかったで済ませたいもの。

現代思想を見てみると、ここ最近のトレンドに<動物化>がある。
<動物化>とは、なにかに没頭すること、欠如-充足という個人の欲求を満たすループにはまることだ。『ポリス的動物』としての人間らしさ(=社会性)にそっぽを向けて、自分の快楽に浸ること、である。

そのような点で、<二元論>は<動物化>のためのツールとも考えられる。感情的な側面を強調し、善悪の二項対立の外部、物語の外部から目を背けさせ、個人個人がずっと浸っていられるような。本能に身を任せて、快楽だけを享受していられるようなツール。

「もはや善悪は社会の問題じゃなくて、個人個人の内面の問題に過ぎない」という指摘はまさに的を射ていると、私は感じた。

これまでの話からもわかるように、<二元論>の本質は「回復」にある。個人個人で、すっきりして、また苦痛に満ちた日常生活に戻るための。

私はこの文章の最初で<二元論>を批判していたが、一方、精神の浄化には必要なものでもあるのだ。ただ<二元論>を思考のデフォルトとしてはいけない。私が本当に言いたかったのは、実は、それだけ。

最終章 ~二項対立の脱却~

さて、最終章。私はこれまでずっと、<二元論>VS<揺らぎ>として対立的に語ってきた。しかし、ここまで読んでくれた読者様ならわかったと思うが、実際、これらは決して相容れないするものではない。その2つは反対の極にあるというだけで、グラデーションのようになっている。だから完全に<二元論>的な作品だったり、完全に<揺らぎ>的な作品と割り切れることは無い。
だがこの対立軸は、作品をよく見るうえで、(作品が真面目に向き合うに値するかを審査するうえで)、大いに役立つと思う。

————————————

さんざん言ってきたことだが、私は二元論>的な物語が嫌いだ。

だが、それは<二元論>が無価値であることを意味しない。

私が言いたかったのは、要はケースバイケースということだ。疲れている人には「高尚な」文学よりも<エンタメ>が刺さるかもしれない。ほどよくスッキリして、きっと熟睡できるだろう。一方で、「ちゃんと作品と向き合いたい」、「自分探しをしたい」人たちにとっては、<アート>が向いている。

この区別をしっかり、自覚することが大事である。たまに<アート>の領域に、<エンタメ>的な評価を持ち込んで「まるで意味が分からん」「意味がない」と早々と評価を下してしまう人がいるが、それはお門違いである。

両者をしっかりと峻別することが必要。シンプルだが、これが最終結論だ。

コメント 感想をください!

  1. 遊ろぐさん、こんばんは!
    この記事、漫画家になろうとしてる私としてはすっっっごく為になりました!!!!!
    ありがとうございます泣

    それと、これ全く関係ない話なんですけど、遊ろぐさんのブログを見てたからか、友達にとある文学の説明をインスタのDMでした時に、「すごく文章が分かりやすい、スッと入ってくる」と褒められました!
    遊ろぐさんのおかけです!!ありがとうございました!!嬉

    • コメントありがとうございます!
      このブログも、今回の記事も役に立ててそうでよかったです。文章褒められたのは、ほんなさんご自身の文章力、努力のおかげだと思いますよ(˶ˊᵕˋ˵)
      ところで漫画のほうは順調ですか?
      いろいろ大変だと思いますががんばってください!

      • こんばんは、遊ろじさん!
        私は現在も漫画の練習めちゃくちゃ頑張っております!!笑笑
        でも、自分は、画力とストーリー構成どっちも自信がないので、映画の脚本術の本と、人体デッサンの本を親に内緒で買いました☺️

        頑張ってジャンプ漫画家になります!!
        遊ろじさんも、ブログ頑張ってください!応援してます☺️

        • ときどきpixiv見にいってます。映画の脚本術は「save the cat」しか読んだことないですけどあれ結構おもしろかったですよ
          私は絵がそんなに上手くないので羨ましいです
          がんばれ!

タイトルとURLをコピーしました