【ちくま要約第4章】

考察
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言語の経験

要は、言葉と意味は分ちがたく結びついてる同じもので、それをわざわざ分けて考える言語学はおかしいよね?って話。

この文章の問いは、「言葉は記号か?」ということ。記号とは、なにか他のものを代理するシンボルのこと。言葉とは(僕たちの普段の経験から考えるなら)、他人との関係を取り持つものとして、人と人の交流をかたち作るものである。そこで大事なのは「何を語るか」よりも「どのように語るか」なのだが、従来の言語学では語ることよりも、その意味を重視してしまっている。言語学では、言葉をシンボルとしてしか捉えず、「言葉は<もの>を表すシンボルであり、言葉とものは別々に存在していて、後からそれぞれが結びつく」と考えている。しかしそれは経験から判断すると違和感がある。例えば「リンゴ」という言葉を聞いたら、あなたはそのシャリッという食感や酸味の効いた香りや味を思い浮かべるだろう。このように意味と言葉は、経験の水準では溶け合って1つとなっている。決して言語学の言うように、物や概念が最初から存在して、あとから言葉がタグ付けされるのでは無い。名付けて世界を区切ることで、言葉と同時に思考や経験がうまれるのだ。このように言葉と意味は一体であり、もはや言葉は意味を「代わりに表す」記号ではない。言語学は理論上の幻想にすぎない。

記号としての身体

上野千鶴子はフェミニズム論客として有名。

この文章では、身体の記号性が問題とされている。つまり、私たちは性の市場から価値を評価されることで初めて自己を発見するという点で、私たちは他者に依存している。また男女間の「視る」「視られる」といった関係の非対称性が、核となる。

人にとって身体は他者である。なぜなら身体は直接知覚することができず、常に他人という鏡を通してしか見ることができないからだ。女性はずっと「視られる対象」として自分の身体を経験してきた。女性は、「欲望の欲望」、つまり人から「羨ましい、かわいい、などと評価されたい!」と思っている。なぜなら自己確認をするためには、他者から一方的に与えられる評価に依存せざるをえないからだ。エステやダイエットは他者の視線の内面化である。また、身体は「脱ぐ」ことができないという特徴を持つ。このように、「視られる主体」の人達にとって、身体に与えられる市場価値(社会的な記号性)と自己意識の葛藤は、多くの人を苦しめている。一方、男性は「視る主体」であり、自分自身は他者の視線を意識する必要が無いため、自分の身体を経験することができない。ところが最近は、男でも念入りに化粧をしたり、髪をセットしたり、外見を気にするようになってきた。これは男性も女性同様「視られる主体」に変わってきている、ということだ。
こうした身体の記号性とアイデンティティの葛藤にうまく折り合いをつける方法は無いのだろうか?例えば、性の市場から距離を置くことで、自分で自分に価値をつける、自己充足的な身体と意識の関係は無いのだろうか?実はどんな方法も不可能なのだ。どんなに自己充足的なものに見えようと、そのライフスタイルは、実はどこかで外部からの視線を前提としてしまっている。私たちの身体に与えられる記号性(人からの評価)は、絶えず私たちにつきまとう。

読む行為

<読む>ことは、それまで自分の生きてきたバックグラウンドを通して、文章から「自分だけの」意味をくみとることである。読者はテクストから意味をくみだすことによって、自分とテクストの関係性を自覚し、「私はどんな人か?」を事後的に知る。(例えばbrotherと聞いてどんな人を思い浮かべるかは人それぞれだが、実際に兄弟のいる人はイメージを引っ張られるかもしれない。<読み>はあなた自身を映し出す。)読まれる以前には、<意味>も、確定した主体としての<私>も存在していない。…というのも、テクストの<意味>は、<読む>という運動を通じて、ひとりひとりの読者ごとに生成されるものであり、読者は読者で、読むことを通じて新しく形成されるからだ。
<読む>ことで、読者自身の考え方が変わる。読者が変わることで、読み取られる意味もまた変わってくる。自分自身の変化が、新しいアイデンティティの「境界」を生み出し、読者自身を自覚させる。このように<読み>とは、テクストと読み手のあいだに生まれる、無限ループの運動なのだ。

幕末における視座の変革

佐久間象山はすごい!ってだけのお話。全然難しい文章ではない。

激動期には、冷静な認識・判断が必要とされつつも、情緒に流されやすく難しい。象山がすぐれていたのは、彼が尊王攘夷派であったときでも、開国派となったときも、つねにリアルな政治をとらえていたからだ。当時の日本の一般的な考えは、「夷狄は野蛮人だから絶対に攻撃してくる」「夷狄も礼儀があるから優しくしたら絶対に攻撃してこない」といった硬直した分析であった。だけど象山は違い「夷狄はたしかに野心をもっているだろう。だけど当然彼らも利益を重視するだろうから、日本を攻めることがその利となるなら攻撃してくるだろうし、利が無いと判断するなら攻めてこないだろう」といった、動的で柔軟な捉え方をしていた。利益重視という分析なら、そこから「攻撃する」「しない」という矛盾する行動がでてきてもおかしくない。いい考え方。

さらに象山のリアリズムは手段と目的の関係にも及ぶ。手段に固執するあまり目的を見失ってはいけない、という教え。当時の幕末の時代、鎖国にこだわる人がいたが、鎖国はあくまで「独立不可侵」のための手段にすぎない。だからもし先代の将軍が幕末に生きていたら、鎖国の本来の目的達成のために、開国を選んでいたかもしれない、と象山は言う。象山はつねに自分で考えることによって政治をリアルにとらえていたのだ。

『史記』の世界

簡単なくせにめんどいからおおざっぱに省略。ごめんなさい。

史記のおもしろさは「鴻門の会」によくあらわれている。普通の人物伝の場合、ある人を絶対的な中心として天動説的な世界が構築されることになる。ある人が「世界の中心」で、それ以外の人が回りを巡る。そんな静的な世界。一方それに対して、『史記』のおもしろさは、「世界の中心」が、項羽と劉邦の二つある、ということだ。そこでは中心が二つあるのだから、天動説は不可能だ。天球を飛び出し、その二つを含めた全体の場(宇宙)が問題となってくる。劉邦と項羽が二大巨星として、それぞれ対比的に描かれることで、その二人のあいだの人々、出来事がからまり合い、複雑でおもしろいストーリーが展開されるのだ。「鴻門の会」によって二人はちょうど出会うことになる。この二大巨星のあいだで交わされる、緊密な力関係の変化や、ほかの時空間とのつながりの複雑さが調和して、二つの星を含む宇宙全体の変化を示すのであり、それが『史記』のおもしろさなのだ。

「安楽」への全体主義

「安楽」と安楽の対比に注意しよう!

「安楽」=不快の排除、一回的な享受、いらだった不安、喜びの欠如
安楽=不快の克服、蓄積・成長、安らぎ、成就の喜び
この対比がわかってれば簡単!

現代のとどまることなく続く高度技術社会を支える精神は何だろうか?それは「安楽」至上主義である。昔は、何か困難に直面したら、その場で個別にアクションを起こして解決しようとする態度=不快と<私>の相互的干渉、が普通だった。しかし最近は、別の傾向が主流である。そもそもトラブルじたいを避けてしまおう、という発想だ。そこには、<私>と困難には相互的干渉がないばかりか、不快を引き起こすものじたいを根こそぎ消してしまおう、という大変身勝手な欲望がはたらいている。あたかも、軍国主義者が敵国をためらいなく殲滅しようとするかのごとく、私たちは不快を殲滅しようとしている。

安楽が不快を経由して快に向かう態度であるのに対して、「安楽」は不快を避けてひたすら快だけを享受しようとする態度だ。1つの例として、安楽には勉強を、「安楽」には大麻をあてはめてみよう。
まずは安楽。例えばあなたが東大合格を目指しているとする。するとあなたは一所懸命に勉強するだろう。過程として、模試の判定で一喜一憂あるだろうが、そうした不快・困難を経ることで、最終的に合格という成就の喜びを手にすることができる。つまり何度も不快を経由し、最終的に乗り越えたという経験が、あなたに大きな喜びを授ける。
つぎに「安楽」について。あなたが大麻を使って現実の不快なことがらから逃げたとする。それは一時的には幸福かもしれないが、その「安楽」を大事にしすぎるあまり、常に薬物の効果が切れること(「安楽」の喪失)へのいらだち・不安を抱えることになる。そして、自分の享受している「安楽」が、安らぎを失った空しいものだと気づきながらも、大麻をやめられない悪循環に陥ってしまう。そこには、「不快の解決」という蓄積が無く、常に同じことの繰り返しなのだから、「がんばってようやく達成した!」という喜びもまた存在しない。

現代においては、大麻は「享受」に置き換えられる。どんどんとモノやサービスを消費することで、不快から目を背け、私たちはニヒリズムに、「自ら」巻き込まれにいってしまう。これが不断に成長する産業社会のからくりであり、結果、喜びは失われてしまった。

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