【第1部】ちくま評論爆速まとめ

考察
考察
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今ちょうどちくま読んだんで音速で要約。

30分で読んで45分くらいでまとめ書いてたので、どこまで正確かはわかんないです。ごめんなさい、ちょっと雑です!(なんか違うな、と思ったら読み飛ばすことをオススメします。)

では早速。

社会問題としての倫理学

功利主義に関する文章。

功利主義は深遠でエレガントであるが、同時に浅薄で下品である。深遠・エレガントさは3大原則による、理論として完成された美しさだが、浅薄な下品さは人間の複雑な営みを1つの式で処理しようとする合理主義への抵抗感だ。今、この功利主義への追い風がある。第1に時代の気分。中間層の消失▶富裕層と貧困層の分離▶「切り捨て」という現実性への賞賛。第2に道徳の自然化。判断のメカニズムの解明によって、スローな批判的思考の方が優れている、と考えられる。第3にテクノロジーとの関係(重要)。人工知能と自動運転車のところで、トロッコ問題的な状況における判断の仕組みを開発者が設定しなければいけない。その際、理論的に最も明確で計算可能である功利主義が勝たざるをえないだろう。そうして今、功利主義の時代になりつつある。

「キャラ」化する若者たち

1番難しいかも。「キャラ」とコミュニケーションの話。

僕たちは、生来の「幸福の才能」、すなわち偶然の成功を必然と見なす能力をもっていた。しかし今それは崩れつつある。あらゆる成功も偶然なのだとしたら、そこには「成功するのは、私以外の誰でもよかった」という匿名性がつきまとい自信を持つことができない。「自分でなければならなかった」という固有性との対立関係である。こうした偶然性≒匿名性において、確固たる自分をつくるためには「キャラ」が必要となる。固有性の根拠がないなら自分で作ってしまえというわけだ。(このとき世界の複数化も同時に起きる。偶然性によって実際に起こりえたかもしれない(そして起こらなかった)世界も意識のなかでということだ。)キャラはコミュニケーションのなかで、その存在を認められ続けること・確認され続けることを通してのみしか存続できない。キャラを失う≒自分の居場所を失うことは怖い。だから自虐的なキャラでも演じ続けなければならない。解決策がないだけに難しい問題だ。

私はどこへいく?

私の身体性と精神性の二項対立がテーマ。

デカルト以来、精神が身体よりも優位であるという考えが主流だった。しかし今それが逆転しつつある。パノプティコンはその一例。インターネットでは人の過去の行動のログが堆積されていく。物理的な現実世界での行動を遡って調べることで、他人の人物像というものをそこから作り上げることができる。同様にバイオメトリックス認証も、脳科学も観察の対象はモノとしての身体なのだ。主体的な私から、身体=モノとしての私。このようにして私の身体が、精神性を蔑ろにする疎外が生じているのが21世紀で、20世紀以前とは大きく異なる。インターネットという見えざる監視装置「パノプティコン」、によって作られた、私の脳や行動のデータベースによって、身体的な私を本当の私とする動きが進んでいる。このパノプティコンの前では権力VS反権力の構図はもはや無意味である。なぜなら誰もが監視される側にいるからだ。こうして精神VS身体は身体有利に傾きつつある。

ディズニーランド

ディズニーランドと遊園地等の対比に注目。

ディズニーランドはなぜ人々を惹き付けるのか。それは閉鎖性、内部での完結性、つまり僕たちがディズニーの提供する世界観に没頭できるからだ。ディズニーにおいて、人々はお金や車を入園時に手放し、園内は常に清掃が行き渡り、外部の建物が隠されている。夢の国の存在を信じさせるだけの説得力がある。こうしてディズニーは従来の遊園地や水族館や博物館から完全に区別される。前者のコンセプトが1つの世界観に閉じこもることなら、後者は世界を特権的な視点から見下ろすこと(例えば、観覧車とか)であるからだ。ディズニーは構想時からすでに、ディズニー映画を現実に顕現させるという点で他の遊園地と比べて異質であり、むしろディズニー映画の世界の方が近かった。まとめると、ディズニーはスクリーンの中の世界に入り込んでいくのに対して、その他テーマパークなどはスクリーンの中の出来事を観客席という特権的立場から見下ろすことに主眼を置いたという点で大きく異なる。

This is Japan

ミクロからマクロへ、がテーマ。日本と世界の対比?

日本において「ミクロからマクロへ」、すなわちボランティアなど具体的アクションの領域から政治について考えようとする人は少い。他国(たとえばイギリス)では、そうではなく、むしろ政治理念▶行動というマクロからミクロへの動きなのだ。この日本の異質さは養成課程の問題である。大学ですらミクロの領域しか教えない。日本ではマクロ(政治)の視点が欠落しているため、「与えられた状況でどう動くか」を考えがちになってしまう。そのような対症療法では、根源的な解決は目指せない。本当は政治によって「与えられた状況」を動かしていくべきなのに。それが「政治のクライシス」であり、だからこそ、ミクロからマクロへの視点が求められている。

敗者の想像力

めっちゃおもしろかった。感動。

「千と千尋の神隠し」は大ヒットしたが、その複雑な感動はどこから来るのか。それは、神隠しにおける賞賛されるべき行動は実際には誰にも覚えられていない(=無償性)。もしこれがディズニー映画(≒アメリカ≒勝者の世界観)だったらどうか?支配的な悪(湯婆婆)をシバいて成長し、めでたしめでたし、だ。あえてそうしなかったのは、「悪」「不正」が蔓延る世の中で、それを成敗することだけが正しいことではないからだ。その勧善懲悪的世界観は、すでに勝者となったものが、自らの正当性を誇るために作り上げた1つの「ストーリー」に他ならない。(似たような勝者(大人)の筋書きとして、子鹿物語が挙げられている。)そうした勝者の「成長」物語へのアンチテーゼとして宮崎は「千と千尋」を作り上げた。だからその活躍ぶりを誰も褒めはしないし、でもだからといって神隠しは夢オチとは異なり、実際に起きたことなのだ。そして「成長」とはまた異なる、不正を正すことはできなくても行動を起こすこと、そうした別種の正しさを「つくる」ことを示した。だから「千と千尋」は、「成長」や「勝者」に取り憑かれた僕たちの傷を浄化し、多くの人々の心を捉えたのだ。それが敗戦後(「勝者」≒アメリカ、の逆)に育った宮崎の、「勝者」とはまた別の世界観、いわば「敗者の想像力」なのだ。

明日の試験もがんばりましょー。数学、絶望。今日も忙しいので、ではグッバイ。

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