前期期末 ちくま評論戦 2・3章

考察
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一時間で読んで50分で書き上げたもの。見返してないからアレだけど、役に立てれば幸い。まだ2章しかかけてないが、余裕があったらあとで3章も書くかもしれん。

明日も頑張りましょー!

ナショナリズムは悪なのか

ナショナリズムというよりは国家論。国家とは暴力の合法的な独占であり、合法の基準は国家が決められる。そんな国家間で戦争が起こり、国内で内戦が起きる。

国民国家=ネーションによってネーションのために運用されるものであり、歴史的に発展した国家の1形態。ナショナリズムを考えることは国民国家について考えることだ。国家の定義は、領域内で正当な物理的暴力をする権利をもつ共同体である。正当さとは、道徳的による正当性ではなく、法律的な正当性である。国家の本質は暴力、と捉えることもできる。国家が「(法律に照らして)正当でない」と判断した行動は、その主権国家の権力の及ぶ土地のなかでは全て違法になる。だから日本国内においては脱税は罪になる。違法行為は、最終的に物理的暴力という形をとって取り締まられる。警察が犯人を逮捕して、物理的に刑務所に閉じ込めて自由を奪ったり、死刑にしてしまったり。主権国家は「そこからそこまではそっちの国、ここからここは私の国」と国家間が境界線を相互承認することによって誕生する。そうして地球上の土地は、どこかの国家にわりあてられる。暴力は国家が取り締まるため、戦争は、国家と国家のあいだでしか起こりえない。内戦は国家の主権という概念が崩壊したとき、つまり国家が暴力を独占できなくなったときにおこる。

動物化するポストモダン

ポストモダンにおいては、急速に「動物化」、つまり他者の存在が薄れて欲求の孤独な消化が進みつつある。 この文章は内容が濃いめ。出題されそうな気がする。

今は、ポストモダンの時代と呼ばれ、近代とは区別される。近代において世界はツリーモデルとしてイメージされていた。<表層>にある「小さな物語」(=日常生活のドラマ性)を、<深層>にある「大きな物語」(=皆をまとめ上げる思想:経済成長、革命思想、国民国家など)が意味付けする。しかしポストモダンにおいては、技術が進歩したり価値観が多様化した結果、大きな物語が効力を失ってしまった。ポストモダンの世界観は「データベースモデル」だ。<表層>にある「小さな物語」は、<深層>にあるデータベースから抽出された要素の組み合わせでしかなく、<深層>は<表層>の意味付けをしない。

オタクたちの消費はそれにあわせて二層化している。<表層>の小さな物語(=各アニメ作品・ノベルゲームなど)を消費して感動すると同時に、それらの物語を「萌え要素」という情報にまで分解して消費すること、つまり<深層>のデータベースを消費することも同時に行っている。ポストモダンにおいてオタクたちの行動は、「動物化」している。動物化とは、欲求をじぶんひとりで充足するようになった、ということ。もちろんオタクたちにもコミケなどの”社会”はあるが、それは「降りる自由」のある、疑似社会でしかない。オタクたちは社交性によって「意味づけ」ができなかったから、孤独な消費に閉じこもるようになった(=動物化した)と考えられる。

この本夏休みに読んだばっか。もしいつか時間があったら読んでみて。

「贅沢」のすすめ

消費と浪費の対比がわかればOK。論旨がわかりやすい。

贅沢とは、必要最低限をこえた余剰のことであり、豊かさの必要条件である(前提)。そして「浪費」と「消費」は違う。浪費は、必要を超えてモノを受け取ることだ。そして浪費は必ずどこかで満足をもたらす。なぜなら、浪費の対象は物理的なモノで、モノを受け取ることにも限界があるからだ(例:食欲には限界がある)。対して、消費は対象が記号情報である。そのため消費には際限がなく、満足がもたらされることもない。(例:アイフォンの新型が発売されるたびに買う人は、iphoneが欲しいんじゃなくて、「流行にのってる人」という記号がほしいのである。近年の消費社会では、消費のほうの欲を煽り、人々を無限の購買活動にみちびいている。しかし消費には満足がなく、自分たちが消費の無限ループに陥っていることに気づかない人たちは、満足を求めてより派手な消費をするようになる。これが20世紀にはじまった消費社会だ。

この本は去年の夏に読んだことがある。かなりおもしろいよ、おすすめ。

聖なるバーチャルリアリティ

バーチャルリアリティというのは、あくまでリアリティであってバイアスがかかっており、それを唯々諾々と称賛するのはどうなの?って文章。

ゲームなどを通じて、バーチャルな空間がひろがりつつある。それは、現実の自分がサイバースペースで生まれ変わりたいという願望をもつからだ。その理由には、「自由」や「平等」が建前でほんとうの社会は差別に満ちたものであり、そのような現実社会で「ほんとうのじぶん」が抑圧されていると感じるからだ。そしてサイバースペースで欲求を満たすようになるが、そこには危険性もある。バーチャルな世界では、さまざまな欲求がだんだんと大きくなっていくが、そのような欲求は中立的なものじゃない。そもそもサイバースペースが現実世界を粗くモデル化したもののためバイアスが生じる。現実世界のさまざまな要素を意味のあるものと無いものに振り分けるのは自分であるはずなのに、それをシステムのほうにゆだねることになる。また、サイバースペースも一つのビジネスなのだから、根底には資本主義があり、そのバイアスもかかっている。だから無反省にサイバースペースを楽観視する立場は、危ない。

ユクスキュルという人の環境世界という概念が絡んでる。知らんでいいけど。

<社会性>への不可解な進化

人間の社会はどのようにしてうまれたのか。チンパンジーとの比較。

とある実験があった。どのバケツに食べ物を隠したかをチンパンジーにあてさせるのだが、チンパンジーは人間が指差ししているのにそれを無視した選択をするのだった。逆に、横に競争者として人間が食べ物を指差すとき、チンパンジーはその意図に気づいて、正しいバケツを選ぶ。人間の場合は難易度が逆で、前者のほうが簡単だろう。この差は何か。それはチンパンジーと人間の社会の差だ。人間は善意を信じているが、チンパンジーは信じていない。無条件で自分に優しくしてくれるわけがない、と思っているから指さされたバケツを選ばない。逆にチンパンジーの社会は競争がベースのため、競争条件下では正解に至れる。そのように進化してきた。しかしチンパンジーから人間が突然変異的に発生したわけではなく、ゆるやかに進化してきたのだから、人間の社交的・利他的な性格もすこしずつ浸透してきたと考えられる。しかし、それではなぜその「弱さ」が淘汰されなかったのか。人間の社会にも疑問が残る。

「後の祭り」を祈る

純粋な過去というものは存在しない。存在するのはいろんな人の話をつなげ合わせた、過去の物語だけだ。

合格発表の直前に祈る人がいるが、それはなぜか?もうすでに結果は確定しているはずだ。(それと同じ問題が「酋長の踊り」というもの)。しかし逆に、純粋な過去というのが幻想ではないのだろうか。そもそも僕たちが過去を知る唯一の方法は、過去を想起することだ。過去をおもいだして、それについて語る。そのようないろんな人の過去にまつわる話に整合性があって、うまく噛み合ったときに、僕たちはそれを「事実」だとみなす。つまり過去は、後から(整合性のある)物語として、つくりあげられたものなのだ。過去はこのような法則にのっとって作られたものでしかなく、カントが「経験されないもの(=純粋な妄想上の存在・イデア)」を批判したように、純粋な過去という幻想を捨てる必要がある。

フッサール現象学みたい。

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