現代社会という「理不尽なゲーム」の正体。 無理ゲー社会・読書レビュー

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社会は理不尽だ。

競争で勝ち負けに白い線が引かれる。生まれた時点では全員が同じ能力を持っているはずなのに、平等じゃない。常に「あなただけの夢」を持たなければならない。世界は広がったのに、人々は孤立している。この「無理ゲー」はどうやって作られたのか。

そんな問いにはっきりと補助線を引いてくれるのが、これから紹介する本「無理ゲー社会」だ。
奇妙な現代社会のリアルを生々しく知ることができる。僕はこの本を読んで大きな衝撃を受けた。おもしろそうだと思ったらぜひぜひ直接手に取って読んでみてほしい。

じゃあ早速。

「自分らしく生きる」呪い

「自分の夢を持ちなさい!」と言われたことはないだろうか?
この「自分らしく生きろ」という呪いを皆さんは当たり前だと思うだろうか?

驚くべきことに、これはつい最近生まれた価値観である。アメリカ西海岸のヒッピームーブメントに端を発し、数十年で急速に広まった『世界宗教』なのだ。

私たちはその煽りを受けて、自分らしく生きないといけないと思ってる。
昔は身分で階級分けされていたから、「自分らしさ」は必要とされていなかった(それどころか階級制度の障害として、抑圧されていたかもしれない)。そして、役割が明確だった。

しかし今はどうだろうか?
個人が平等化され、できることが広がった。と同時に、何をやればいいのかが分からなくなった。無数の選択肢のなかで夢に溺れている私たち。

夢探しの全ての元凶は何か?

橘氏によると、それは「リベラル」=自由主義の浸透だ。リベラルの基本原理は「私か自由に生きられるなら、あなたも自由に生きる権利がある」こと。そんなリベラルな世界では誰もが「自分らしく」生きるべきだ。裏を返せば一人一人が他人とは違う夢を持たなければならない。すると世界には80億を超える夢が溢れていることになる。

リベラル化が進むと、社会の構造までも変わってしまう。ここでは愛情空間、友情空間、貨幣空間の概念を挙げるに留めておこう。

この三つの空間は、人々のつながりを大きく三つにカテゴライズしたものである。
愛情空間は、家族や恋人などの近しい人との関係、
友情空間は、「親友」を核とした最大150人ほどの知り合いの関係、
貨幣空間は、お金のみを介して漠然として広がっている世界だ。

今、このバランスが大きく変わってきている。
愛情空間は拡大し、友情空間は縮小し、貨幣空間はそれに伴って広がっている。なぜ?

友情空間の減少。これは人類のネットワークが急速に拡大し、多くの人と接するようになったことに由来する。人との関わりは増えたが、それにより一つ一つのつながりは薄れてしまった。また近隣集団との濃い関係をめんどくさいと思う人が増えてきた。そうした人々はお金を払ってサービスで代用することで、友情空間から貨幣空間へアウトソースされ、貨幣空間の拡大も起きている。

そしてその結果、①世界の複雑化②中間共同体の解体③自己責任の強調 今起きていることだ。

さらにリベラル化が人々を苦しめるのには原因がある。

それこそが心理学で言うところの2重のアイデンティティ問題だ。
私たちは皆、一方で社会と一体化したい(=属していたい)と思うが、もう片方では自分の存在を際立たせたいと思っている。リベラル化(自由主義化)が進むと、必然的に個人主義や多様性の思想も広がり、社会から外れている存在も社会の内側へと取り込まれていってしまう。

今まで認められていなかったアイデンティティが社会で認められる多様性はもちろんいい事だ。しかしこのとき、一人一人に存在する2つのアイデンティティに差が無くなる。そうすると自分の存在を主張しにくくなる。今・ここにはいない「ほんとうのじぶん」探しや夢探しが難しくなるのは当然の帰結だろう。

私たちはリベラルのいたずらにより、夢は薄れ、さらにそれを探させられている。

天は人の上に人を造り、人の下に人を造る。

メリトクラシー能力主義と訳される。merit=利点、cracy=統治から人々の能力による統治、「能力主義」を表すために作られた造語だ。

皆さんは今のメリトクラシー社会、すなわち能力によって人々が評価される事態をどう思うだろうか?

私は良い事だと思っていた。能力がある人や努力した人はその能力量に応じて多くの利益を得るべきだし、負ける人はただ単に努力を怠っただけだ。単純明快で合理的。

しかしその根本がこの本を通して大きく揺らいだ。

僕たちは無意識的にこう考えている。
『努力は個人の「自由な選択」であり、勉強をするもしないも個人の自由だ。しかしそれは本人自身が選んだことだから、決断者は結果に責任を負うべきだ。この「能力主義」は能力による人の「区別」だから公平だ。個人が自由に選択できない要素、すなわち人種・性別・国籍などで人を「差別」するものとは異なるからだ。だから適切なのだ。』と。

じゃあこれの何が違うのだろうか?

答えはシンプル、そもそも「生まれた時点で」個人間に差があるからだ。

これは優生思想などと結びつきやすく、リベラルな思想を根本から覆す危険性を孕む。だから話題として長らく封印されてきた。しかし近年の行動遺伝学などの科学により、不意因されてきた事実は解き明かされてしまった。

結果としていくつかの不都合な真実が浮かんできた。知能格差はその中の一つ。親の知能は約7割遺伝する。さらに言えば「やる気」や集中力も遺伝する。遺伝以外の要因として次に大きいのは、友達関係などの家庭外環境で、家庭内の影響は無力に等しい。

国際成人力調査では、日本人の1/3が日本語が読めず、日本人の1/3が小学3~4年生程度の数的思考力しかないのだ。私たちはこの事実を受け入れなくてはならない。

「誰でも努力すれば、頭が良くなる」

これこそがリベラルな世界を成り立たせる最大の「神話」だろう。僕たちの性別、人種、国籍など生来の属性で人を判断することは差別だ。ところが、この「神話」により知能による「区別」は正当化されている。
そうして教育に予算をつぎ込むと、社会は功利的に、勉強ができる人、すなわち遺伝ガチャのあたりの人々の才能を伸ばそうとするだろう。これでは逆に格差は広がるばかりだ。

メリットが遺伝によって決まっているのなら、メリットに富んでいるものが社会に再分配すればいいことになるが、それは遺伝的特権層と遺伝的犠牲者層を分断するだけだ。

とはいえ生まれた瞬間にすべてが決まっているわけではない。私たちにできることはこの事実を受け入れ、自らの手で未来を(ある程度)切り開き、よい社会を構想することだろう。

不公正と格差と

近年、アメリカの白人労働者階級の「絶望死」が増加している。

絶望死とは、死ぬまでアルコールやドラッグにおぼれたり、自殺だったりする。そしてその絶望死はプア・ホワイト(さっき述べたような低学歴白人層)で4倍近くになっている。彼らは長期的に機会が奪われたことに絶望している。それは働く機会であり、結婚する機会であり、幸せになる機会だ。「自己責任論」はこれをさらに苦しめるだけ。
そしてこの状況に陰謀論とのつながりがある。

興味深いことに、いわゆる「白人至上主義者」の主張は、単に白人が優越人種ということでない。彼らの言うことはこうだ。「白人は差別されている。白人から機会が奪われている。」と。
絶望死と同時並行的に増加する陰謀論。例えばQアノンという陰謀論。世界は闇の政府(ディープステイト)に支配されているという。選挙は盗まれたと言う。結果議会は包囲された。
これらの事態はどこから始まったのか?

その前に、そもそも人はなぜ陰謀論を信じるのか?

私たちはどこまでも人が理性的な存在だと信じている。しかし科学革命が起きたのもここ数百年の間で、私たちはずっと数百万年を神秘的・呪術的陰謀論の世界に生きてきた。だからそもそも人間は陰謀論で思考する生き物だし、問の立て方自体が間違っている。陰謀論を信じる方が「普通」なのだ。

陰謀論と関係のあることとして、人は世界が公正であってほしいと願う。公正とは社会が秩序立てられていることで、社会心理学ではこれを「公正世界信念」と呼ぶ。

公正世界信念は良いことに思えるが、それすなわち他者の不道徳を正そうとすることでもある。
だから「不公正だ」と感じる事実があれば、何とか公正世界を保つために自分の認知を変える。事件の被害者がネットで断罪されるのだって同じだ。被害者に責任を押し付けることで、世界は「公正」に保たれる。

そして実は世界は巨悪で蝕まれていて、自分自身が公正な世界を守るための「善の戦士」でいると想像し、不可解な世界に秩序を求める。公正世界を取り戻す。これが陰謀論の、認知の変えることの効果だ。

陰謀論の他の効果は脅威の排除だ。心理実験により次のようなことが示されている。

「人はプライドを高めようとする。しかしそれができないときはプライドが気づつけられるのを必死で避ける。」

だから今まで蔑んできた黒人よりも自分の地位が低い事実に納得がいない白人の「被害者」は、認知を変えてプライドを守り、公正な世界を守る。このとき陰謀が姿を現す。

次は「格差」についての話だ。

リベラル化が進み、恋愛市場も変わっていく。自由化が進み、女性も経済的自由を手に入れる。すると女は男を選べるようになる。男は競争する。女もよい条件の男をめぐって競争する。

身もふたもない言い方だとは思うが、生物学的な観点から言うと恋愛とは「男が競争し、女が選択する」システムそのものだ。これは性差に由来する。女性は子供を産むコストが高く、男は低い。だから最適な生存戦略としては、男は多くの女を求めることで、女はより長期的な支えとなる男を探すことだ。

現代。文明が進み、競争が純化されることでその本質があらわになった。そうしてその枠組みからはみ出たもの(経済的にも、その他の点でもアドバンテージがなかったもの)は、経済格差の犠牲者であり性愛格差の犠牲者でもあった。「無理ゲー社会」ではそのようにして起きたテロ事件について話されていたが、ここでは割愛させてもらおう。

経済成長、さもなくば脱成長

資本主義は夢をかなえるシステムだ。

事業の資金調達は負債と資本によって賄われ、資金運用はそれらによって事業を起こした結果となる。負債、すなわち未来から前借りでで、無一文でも資金調達ができる。こうした仕組みで資本主義は才能ある起業家の野望だけでなく人の夢をかなえてきた。

だが今、富の正規分布が崩れ、べき分布の世界になっている
これは単純にお金を投資として運用する場合と使い切る場合の2つのみでも説明できる。経済が順調に回っている状態ではこれが当然の結果なのだ。そしてこれが、国民を上級と下級に分断している。

橘氏の公式ブログより

アメリカの歴史学者シャイデルは平和が続くと不平等が蓄積されるという一般的な法則を導き出した。そして彼は不平等を正す「平等化の四騎士」として「戦争」「革命」「崩壊」「疫病」を挙げた。
経済成長が続く限り、格差は広がるし、環境破壊も進む。だから脱・資本主義の考えも生まれた。

しかしこれに対して真逆な立場の考えもある。資本主義が高度に発展することで、脱・物質化が進み環境への負荷が減るという考えだ。ここでは希望の四騎士は「テクノロジーの進歩」「資本主義」「反応する政府」「市民の自覚」だ。
このような意見のどちらに立つかは後に大きな問題となるだろう。だが1つ確かなのは、人に欲がある限り、人は資本主義や成長から抜け出すことはできないということだ。

本の内容の総括

リベラル化で利害の衝突が増え、世界は複雑化し、人々は抑圧される。
そして社会の不可解さを説明することに躍起になり、陰謀論が生まれる。
高齢者の増加でパイ(取り分)は減少していく。
知能で世界は分断される。
この世界で私たちは社会的・経済的成功をつかまなければならない。
それこそが「無理ゲー」だ。

僕の感想

僕はこの本を読んでとても大きな衝撃を受けた。特に知能格差。

僕は(自分で言うのもなんだが)そこそこの知能もあり、貧しくもない。社会に大した不満も感じてこなかった、いわば勝ち組のルートにいたわけだ。しかしこうした僕の世界は多くの「ガチャ」に当たったのと大して変わらない。確かに努力もしてきたが、それすらも遺伝的影響をすくなからず受けている。このような分断を見ないでいられたのは、目をふさいでいたからか、それとも隠されていたからなのか。いずれにせよこの本を通して、多くのことを知った。

複雑な現代社会を考察しようと思ったら相当大変だ。読み終えて、それを分かりやすく示せた筆者の橘氏すげえって、なった。

今までそうした分断に気づいてこなかったからこそ、僕は「無理ゲー社会」を手に取ることとなったのかも。僕たちは分断を受けているが、大部分の人はその分断に気づいていない。この本は現代の生きづらさの理屈を知ることの助けとなると思うのでぜひ多くの人に読んでいただきたい。

と、言うことで「無理ゲー社会」のレビュー記事だったがいかがだっただろうか。

僕は最近比重の大きい記事を書きすぎて結構疲れた。(投稿めっちゃ遅れて申し訳ないっす)
マジで今月忙しくてあんまり書けてないけど、しばらくは軽めの記事でも書こうかなと思う。

ではまた次の記事で!

コメント 気軽に自由に感想を寄せてね!

  1. ほんな兼ミニトマトそーぷ より:

    自分が「この世は無理ゲー社会だな…」と感じたのは、映画「ジョーカー」(2019)を観た時です。

    大道芸人だった男、アーサーが、さまざまな要因から悪に変貌するというのが大まかなあらすじです。

    ※ここからネタバレ注意

    主人公のアーサーは妄想癖があり、
    現実と妄想の区別が付かない時がある。
    これは、母親の妄想癖も遺伝の影響である。

    それと同じく、彼は笑いたくないのに笑ってしまう病を抱えていた。(この病が原因で主人公の転落人生が始まる。)

    その病の原因は彼の幼少期の母親の恋人による虐待の影響だった。母親は、泣き叫ぶ自分の子供を
    無視した。

    彼は学校にも慣れず、社会に不信感を抱いたまま成人した。

    成人後、彼はカウンセリングを受けながら
    人々を幸せにするコメディアンを目指すも、ストリートチルドレン(いわゆる学校に行けてない子供)や、帰りの電車の中で社畜にいじめられ(その後アーサーが自ら彼らを射殺)、会社の同僚にも裏切られてしまう。(社畜同様、射殺)

    アーサーの憧れであった司会者、マレーにもテレビ越しに馬鹿にされて彼は怒りに燃えた。

    そして、アーサーは自分の母とその恋人が自分を虐待をしていたことを知ってしまう。

    そして社会保障も期限が切れ、処方箋、薬ももらえなくなった。彼はカウンセリングを受けれなくなったのだ。

    ↓以下に続く

  2. ほんな兼ミニトマトそーぷ より:

    その頃アーサーには恋人(?)もいたのだが
    その恋人も彼の妄想だった。

    マレーのような富裕層にも社畜のような貧困層にも馬鹿にされ彼は、絶望した。

    しかし、社畜(エリート社員)を射殺したアーサーには彼と同じく人生に絶望し、社会から孤立した支持層が集っていた。

    (書くのを忘れていたが、アーサーが殺した社畜は、ウェイン証券に勤めるエリート社員である。

    その社長として報道番組に出演したトーマスは、素顔を晒さず逃げたアーサーを「ただのピエロだ」と罵った。

    しかし、貧しい人々はこの事件を、貧困層から富裕層への復讐と捉え、犯人に共感していた。
    この事件は、貧困層の恨みを買い、富裕層に対する激しいバッシングが巻き起こった。)

    そして、彼は確かにここに「存在している」ことを理解しつつあった。

    この時、アーサーの母親は病気で死にそうになっていて入院していたのだが、彼は自らの母親の首を締めて死なせた。

    「何がハッピーだ。幸せなんて俺にはなかった。」

    ある日、アーサーの元に電話がかかってきた。
    マレーのトークショーのスタッフからだ。

    「君のの映像を流した回の反響が凄いから、翌週の番組に出演して欲しい。」

    クラブのステージでネタを披露するアーサーの姿
    を「ジョーカー」と呼び、ネタの拙さや立ち居振る舞いを馬鹿にして笑いをとったマレー…。

    アーサーは、自分を「笑いもの」にするつもりだと気付きつつも話を承諾した。

    アーサーは自宅でマレーとの会話を想定した一人芝居を演じることで、番組の最中に拳銃自殺するためのリハーサルを行う。
    (道中、アーサーは自分を裏切った同僚を射殺している。しかし、自分に優しくしてくれたもう1人の同僚は殺さなかった。)

    そして、彼はピエロのメイクをし、アパートを出て踊りながら長い階段を下っていく。

    そこへ声をかけて来る刑事とその相棒。逃げるため地下鉄へ駆け込むアーサー。

    そこは偶然にもこれからデモに向かうピエロの仮面を被った市民で溢れかえっていた。

    刑事たちは電車内で掴み合いになると無実の市民を誤射してピエロたちの暴行を受ける事態に陥り、アーサーを逃がしてしまう。

    ↓以下へ続く(長くてごめんなさい)

  3. ほんな兼ミニトマトそーぷ より:

    無事にスタジオに到着したアーサーは、控え室で対面したマレーに自分のメイクは昨今の情勢とは全くの無関係であることを告げ、「自分を本名ではなくジョーカーと紹介してほしい」と頼む。

    そして生放送が始まった。出番になり登場したアーサーだが、口を開く度にマレーに茶々を入れられて拍子を外され、次第にリハーサルとは違う行動を取り始める。流れで地下鉄での証券マンの殺人の犯人であることを告白すると、続いて社会の不条理を主張し始めた。

    「トーマスのような大金持ちが倒れてたらみんな助けるのに、俺みたいな者が倒れてたら、みんな俺を踏んづけて素通りするんだろ!!!」

    「もう俺は何も怖くない。失うものなんて何も無い!!!」

    そんな涙の訴えも聞き入れられず退場を宣告されたアーサーは、感情に身を任せてマレーを射殺。

    逃げ出す観客をよそにテレビカメラの前でステップを踏むアーサー。

    「みんな覚えておいてね!それが人せ…」
    何かを言おうとしたものの、寸前で放送は中断し、その場で逮捕されてしまう。

    アーサーの凶行をきっかけに街のいたるところで暴動が起きる中、パトカーで護送されるアーサーがその光景を美しいと表現した直後、パトカーに暴徒の乗った車が激突する。

    街では富裕層の人々が悪辣な暴行を受けており、家族で舞台を鑑賞していたトーマスは騒動を避けるべく路地へと逃げ込むが、それを見ていた1人の暴徒によって妻と共に射殺され、息子であるブルースだけが生き残った。

    パトカーのボンネットで気絶から目覚めたアーサーはその場に立ち上がると、自らの血で口元のメイクをグラスゴースマイルのように変えた後、周囲を囲むピエロ姿の暴徒たちがあげる歓喜の声に両手を広げ受け止める。

    最後のシーン。
    場面は変わり、ノーメイクのアーサーが手錠を付け煙草を吸いながら精神分析を受けていた。
    彼は、ニヤリと笑みを浮かべた。

    アーサー「ジョークを思いついた」
    精神科「どんなの?」

    アーサー「理解できないさ。(you wouldn’t get it.)」

    部屋から出たアーサーは廊下に血の足跡をベッタリ残して歩を進め、突き当りの窓際で陽光に照らされながら踊り始める。すぐに病院の職員に見つかると、アーサーは右へ左へと逃げ回るのだった。

    THE END

    どうしてこの映画を出したかというと、
    このような無理ゲー社会は、「無敵の人」という
    社会から孤立してしまった人を産んでしまうんじゃないか。と思ったからです。

    ブログにも書いてある、「テクノロジーの進歩」「資本主義」「反応する政府」「市民の自覚」。

    これは、ジョーカー(2019)の住んでる社会と一緒だと思いました。

    資本主義、つまりこの社会の構造からドロップアウトした者が、無敵の人になるんじゃないか。

    まだまだ、話したいことがありますが今回は一旦ここで区切ります。

    長文失礼いたしました…汗

    • 遊ろぐ 遊ろぐ より:

      今回もコメント、楽しく読ませていただきました。ありがとうございます。

      「ジョーカー」は、決してフィクションだと割り切れない現実味がありますね…

      実はこの「無理ゲー社会」に、「ジョーカー」が引用されてます。ほんなさんが慧眼すぎる…それこそ”poor white”の話、アメリカの社会から脱落者の話のところで。

      読んでいる限り、どうしてもジョーカーが悪者だったとは思えない。ただ公平を取り戻そうとしているだけなのだから。むしろ、暴動というよりは革命権を行使しただけのような気がします。

      今の社会は、どこも表面を取り繕っているけれど、どこかしら深いところに欠陥があるように思えます。この記事でも「希望の4騎士」として、テクノロジーの進歩・資本主義・反応する政府・市民の自覚をあげさせてもらいました。だけど僕は、どうしてもそれらだけで社会的な問題の数々を解決できるとは決して思えない。

      資本主義が格差を増大させる、というのはよく言われる話です。マルクスも「資本主義の発展が内在的矛盾を増大させる」と言ってたり、新しいものではピケティがデータを使って格差が現在進行形であることを明らかにしています。テクノロジーの進歩も限界がある。むしろテクノロジーが進歩しても、それは格差を増大させかねない。反応する政府、とは言うものの、政府が富裕層を優遇するのは必然。そもそも巨大な政府という組織が、人々の声に十分耳を傾けることができるかと言われたら…。うーん。少し悲観的。

      そもそも凶悪な犯罪者としてジョーカーが生まれたのも、政治が機能不全に陥っているから。個人化、自由、自己責任。「資本主義は自由をもたらしたが、それはいつ死んでもいい自由だった」、そんな言葉をどこかで聞いたことがある気がします。だからこそ政府が制御しなきゃいけない。

      本当に苦しい人は、そもそも声を上げられない。いや過去に声を上げたことがあるけど、無視されてしまった。誰も反応しなかった。だから声をあげなくなってしまった。いわゆる、サイレントベビー。その、世間というものへの不信感が、ジョーカーの動機だったかもしれない。

      社会からの脱落者をつくらないことが、一番。

      再分配を正当化する根拠は2つあります。①保険。自分がどうしようもない状態にに陥ったときに助けてもらえる。②社会正義。機会は均等でなければならない。ロールズの言うような正義が求められている気がします。

      書いていてふと、京都・伏見介護殺人事件を思い出しました。常に手を差し伸べ続けなければならない。浅薄な利己主義に陥ってはいけない。
      それをどう実現するのか、僕にはよくわかりません。
      ただ少なくとも、隣人に手を差し伸べられるくらいにはなりたい。

      随分と長くなってしまいました(苦笑)。「ジョーカー」、見てみたいです。

  4. ほんな兼ミニトマトそーぷ より:

    大勢の人々がひしめき合って暮らす大都会は、それゆえ他人に無関心で人間関係も希薄になりがちですからね…。社会からの脱落者も出やすい。

    孤独を感じるのよく分かります。

    • 遊ろぐ 遊ろぐ より:

      そういえば!!ジョーカー観ましたよ!!えげつなかったです(語彙力)

      • ほんな兼ミニトマトそーぷ より:

        おー!観終わりましたか!(嬉)

        映画「ジョーカー」は、
        マーティンスコセッシ監督作の映画
        「タクシードライバー」(1976年)、
        「キング・オブ・コメディ」(1982年)

        この2つの映画を2段構造でオマージュしています。
        (この2つの映画は、どちらも社会そのものから脱落してしまった人々を主人公にしています。個人的に、どちらも考えさせられる映画
        だと思っています。見て損はない!)

        昔から、社会が弱者を機会的に捨てるのは
        変わってないということですね…

        まだまだ、話したいことがありますが、今回は一旦ここで区切ります!ではでは!

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