かわいさと歪さ。 「かわいい論」レビュー

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「かわいい」。 今では何にでも用いられている言葉である。たしかに私も犬や猫を見てかわいいと思う。しかし度々疑問に思うのは、もはや「かわいい」という語の正しい意味は表せなくなってきているのでは?ということだ。何にでも「かわいい」と返す人を見て皆さんも違和感を感じたことはないだろうか?

今回、私は「かわいい論」という本を読んで理解した事柄を簡潔に話したいと思う。

ちなみに私が「かわいい」という言葉に初めて違和感を抱いたのは、とあるホラゲーのキャラクター(かなりグロい)のぬいぐるみが「かわいい」と話題になっている、ということを知った時だ。

問題提起|「かわいい」という幻想

まず確認しておきたいのはかわいさは物の性質ではない、ということだ。もし性質なら、ある対象に対して「かわいい」という言葉を使うか否かである程度は合意が成り立つはずである。しかし実際には老人をかわいいと言う人がいて、一方でそうでないと言う人もいる。つまり「かわいい」は対象そのものの性質ではなく、感情のなかにのみ存在するものである。だから「かわいい」と感じるものはあっても、「かわいい」ものは存在しない。

これを踏まえると、対象がかわいいかどうかは見方や見る人の状況によって変わってしまう。

では「かわいい」を説明するためには何て言えばいいのだろうか?この言葉はすでに、他の語では代弁不可能なくらいに強い影響力を持ってしまっている。その語が作りだす人の心の中をアウトプットしたいというのが今回の試みだ。

結論

それは、「優越感・安心感から生じ、対象そのものを理想化して肯定する感情」である。

かわいさのコア・イメージ

ここで参考になるのは「かわいいの対義語は何か?」というアンケートだ↓

①同語反復的なもの(かわいくない)
②肯定的なもの(美しい)
③否定的なもの(醜い)
④その他(無感動的なもの)

興味深いのはかわいいの対義語に美しいがあることだ。美しさは永続性、完全性、対称性を求める。そしてそれをひっくり返すと、一瞬性、不完全性、非対称性が出てくる。そして①~④からわかる「かわいい」イメージは全て、感動性(④の逆)、すなわち何らかの心を動かすような状態にある。

そしてかわいいものを挙げると以下のようになる。

参考サイト⇒https://ranking.net/rankings/best-cute-things

このとき動物や小さなものがよく目立つ。こうしたものは相手を保護してあげないといけない、と支配欲を掻き立てるものだと分析でき、つまり相手を下に見て、自分が確かに優位である、相手が絶対に自分を裏切らないという安心感が「かわいさ」の本質に深く関わっている。

つまり「かわいい≒かわいそう」と言っても差し支えないだろう。

こうして「かわいい」の名のもとに、自分と対象の間の関わり、政治性が抑圧されているのだ。

グロさとかわいさと空想

このとき、かわいさとは本来的にグロテスクさの親類であると言える。キモカワ、という言葉まであるくらいに、どちらも不完全さが共通している。

「かわいさ」とグロさの例として、アニメキャラ、フィギュアが挙げられる。ミニチュア化、非対称性、単純な色彩。確かに異様だ。

しかしそれらは、現実には存在しないこと、さらには理想化の意識のフィルターをかけられることによって「かわいく」見えているのだ。

このときさっき述べた感動性が、対象の異様さを「可愛く」変換するフィルターの存在に気づきにくくするのに一役買っている。何かしらの感情を動かす働きが、単純な不自然さを覆い隠してしまう。

だから私たちは「かわいい」を現実感のある「感覚」として受け取れる。

また対象そのものがフィクションの産物であると「かわいい」と思われやすい。なぜなら、このとき、対象と自分の間には政治性がないから。相手が反抗する可能性は1ミリも無く、相手は絶対的に自分の支配下にある。これがさっきの支配欲の話にも繋がる。

そのような「かわいさ」の成り立ちに関して、もっと身近な例を挙げてみよう。赤ちゃん、犬などは世間一般的にかわいい。しかしそれは「かわいいもの」という無意識の刷り込みの結果かもしれない。

確かにイメージの上でのそれらは純新無垢で無害で「かわいい」。しかしイメージ上のそれらからは騒音や異臭などの生々しさが除去されているだろう。

グロさとかわいさは親和性がある。

さらにそれらの対象が何らかの要求をしてきたとき、対象への自分優位の関係は崩れてしまう。たとえ子供が駄々をこねたとしても親が優位なのは変わらない。しかし、もし、そのパワーバランスが崩れることがあれば(もしくはその可能性があれば)、安心できる存在が自分を脅かすようになる瞬間である。もはやそれ以上はかわいくいられないだろう。

主作用と副作用

以上述べてきた「かわいさ」の主作用は見る人を1つのユートピア的空間に誘うことだ。その空想上の世界と一体化することで、私たちは現実から離れ、幸福に酔いしれることが出来る。

しかし当然そこには副作用も存在する。
かわいさの裏には現実性、対象そのものの異様さ、歪な政治性などの要素が抑圧されている。

しかしそれを若干の感動性による理想化が掻き消して、私たちに「かわいい」の存在を信じ込ませている。

また消費社会のかわいい観も私たちに「かわいい」を信じ込ませる。

消費主義は、かわいいを幸福とし、受け手を他者とは違う特別な存在にするという目的で、終わりない消費に向かわせる。

そして私たちは互いに「かわいい」と言い合うことで、自分たちが同じ共同体に帰属していること、「かわいさ」が存在することを確かめ合い、自分達の存在をそこに見出す。

その証左として、「かわいい論」の中に登場した「かわいいものを挙げてください」という問いへの(女性の)答えは、バッグだったりアクセサリーだったり、近隣集団を意識したものが目立った。消費主義が「かわいい」を売りつけているという構図はこれで一目瞭然だ。

そして今、かわいいの対義語の一つに「かわいくない」があるように、この語それ自体が持つ支配力が私たちを包み込みつつある。

結論

「かわいい」とは、対象とのパワーバランスから、相手自体を理想化する感情である。そして、そのバックグラウンドプロセスに気づかせないための装置が感動性であり、消費主義であり、互いにかわいいと呼び合う儀礼行為なのだ。
しかし「かわいい」の裏には現実性の無視が、生々しさの抑圧が隠れているということを忘れてはならない。

以上が今回、私が得た「かわいい」の真実である。結構駆け足になってしまったが、ご理解いただけただろうか。

こんな感じで当ブログでは、日常疑問に思ったことや本の要約/感想などを定期的に載せている。今回満足頂けたならばぜひほかの記事も読んでみていただきたい。

そんじゃ、今回はこれで終わり!

コメント 気軽に自由に感想を寄せてね!

  1. ほんな兼ミニトマトそーぷ より:

    ほー、可愛さと歪さですか!興味深い…。

    このブログで思い出したのですが、
    心理学の用語で、「キュートアグレッション」
    という言葉があります。

    かわいいものを前にしたときに湧き上がる残虐的な気持ちや嫉妬心のような歯がゆさ、その衝動
    のことです。

    なので、キュートアグレッションもまた行き過ぎるとDVになってしまいかねないのです。

    何事にも限度が必要なのですね…。

    ↑参考になれたら幸いです。

    興味深い記事でした。
    次回も楽しみにしております

    • 遊ろぐ 遊ろぐ より:

      なんと…!「キュートアグレッション」なんて言葉があるのか。また一つ賢くなってしまった(笑)。

      この文章随分まえに書いたものなので、自分でも今更思い出しました。

      かわいいという感情は、相手が自分にいっさいの害を及ぼさないことが大前提になっています。つまり自分が特権的な立場にいる必要がある。動物園とか水族館にいて、動物をかわいく思えるのは、飼育員さんが世話をしてくれるから。だけど実際に自分が動物を飼えるかと言われたらちょっと…。動物を育てるのって、汚いものを掃除したり臭かったり大変じゃないですか。だから「かわいい」ってのも随分身勝手な感情だよな、って今読み返しておもいました。

      キュートアグレッションか…。そもそも自分より劣位にある相手を虐げることで、自分が相手をコントロールできるという支配欲を満たしているのかもしれないですね。
      でもかわいいものを支配したい、という気持ちもわかるなぁ。

      たしかに、限度は大事ですね。

      原著を読んだことはないので間違っているかもしれないのですが、ジャック・ラカンという人の精神分析を思い出しました。いわく、人間はか弱い存在として生まれる。庇護が必要なものとして生まれる。だから「母」を求めるけれど、外部の干渉のせいで、「母」を自分にくぎ付けにすることができない。その「母」との一体化の欲望を曲げられたことが、人の内部にいつまでも、根強く、残る。だから大人になってもその欠乏を埋めることのできる存在(対象a)を探し続ける。でも、見つけたと思ったとたんに幻滅してしまう。だから対象aを探し、幻滅し、またあたらしく探し…の永久運動をくりかえすことになる。

      僕たちが「かわいい」と思うのは、実はこのような人間の本能なのかもしれないです。ずっと抱えている穴を、「かわいい」とそそられるものを支配(一体化)することで、穴の埋まった、完全な自己になりたい。そういう欲望なのかもしれません。

      昨今有名になった「蛙化」という言葉がありますが、考えてみたらこれも、このかわいさの本質的なところが関係しているのかもしれないなぁ、と思いました。

      と、いうのも「かわいい」は随分身勝手な幻想です。対象との間にガラスの壁が必要です。それを通して、特権的な立場から相手を見ることで、相手の卑しさを直視しなくていい、「かわいい」という感情を維持できる。でも、相手が振り向いたとき、ガラスから手を伸ばしてきたとき、そこに政治性が確立されてしまう。なにか不吉なリアルさ、が伝わってきてしまい、完璧なイメージが崩れてしまう。蛙化っていうのは、そうゆう原理なのかもしれません(あくまで僕の考察ですが)。

      僕の友達も、相手が蛙化してしまって、その相手からほとんど縁を切られてしまいました。世の中、厳しいですね(笑)。

      さっきのジャック・ラカンをあてはめるなら、対象aに夢見ていた「母」の影が、相手を近くから見るようになった瞬間に、どこかへ立ち退いてしまった、対象aは「母」の穴を埋められないことに気づいてしまった。そんな感じでしょうか。幻は幻としてしか、形を維持できないのでしょう。

      キュートアグレッション関連でもう一つ思い出しました。僕の体験です。
      小学6年生のとき、学校行事で臨海合宿というものがありました。宿がありえないくらい汚かったけど、楽しかったなあ。海で泳ぐだけです。そのときにクラゲが出て、先生がクラゲを数匹、海から捕獲してきました。そこまで危険じゃない、透明の、小さなクラゲです。捕まえてきたときにはもしかしたら死んでいたのかもしれません。あまり詳しくは覚えてないのですが、そのうち女子達が、バケツのなかのクラゲに触り始めました。「ぷにぷにしてる~」「かわいいー」と言いながら、1匹1匹、クラゲを押しつぶしていったんです。
      人って怖いな、ってそのとき感じました(笑)。でも人間がこわいのはもちろんなんですが、「かわいい」にそういった力がそもそも含まれていたのかもしえません。結構、衝撃でした。

      ごめんなさい、書いてるうちにどんどんアイデアが浮かび、とても長くなってしまいました!こんなに描けるなら、1つ、記事にでもすればよかった…

      またのコメント待ってます!いつもありがとうございます!

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