なぜ人は逆の道を歩むのか? 社会的パラドックスの原理論

考察
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 世には、不可思議なことが多い。

よいことをしようと、悪に走るのは、善悪どっちだろうか?
そうしたパラドックスを全てひっくるめて、考えられないだろうか。

世にあふれる倒錯の数々。

 現国で「魔術化する科学技術」を読んで、とても興味深かった。その内容を簡潔に整理すると、「物事のルールを明確にする科学を推し進めることで、その科学を持ってしても理解できない領域はより暗く、確実になる。さらに、原理の分からない科学技術をそのまま使うということは、『そういうもの』として物事を受け入れる呪術と結局変わらない。」というようなお話だったと思う。

 この、科学技術の逆説っていうのが、ユニークだ。物事をわかるようにしていくことでわからなさが強調されるという、直感との乖離があるから。

同じようなパラドックスとして思い出したのが、豊かさの逆説だ。この逆説を一言で説明しよう。
豊かになることで、貧しさを求める。

なぜか?豊かになるということは、人生における1つの目標を達成するということだ。即ち、目標が消えたことで、使命感や生きる目的が1つ消える。そんな退屈さを消すために、あえて貧しい状況(経済面以外にも、誰かの死・事件など)を欲する、という逆説だ。戦争の英雄や、悲劇のヒロインにあこがれるのだって、不幸の欲求の投影にすぎない。

同様に、私が考えたのは善悪のパラドックスだ。巨悪は、善意から生じる。例えば、タリバンというテロ組織がある。もともとの目的は「混沌としたアフガニスタンにおいて、誰もが平和に暮らせる世界をつくること」。意外かもしれない。だって、テロリストがまともな目標掲げてるんだから。他には、地下鉄サリン事件などで有名なオウム真理教がある。あの宗教において、人を殺す口実になったのは「現世の人を救済すること」だ。上層部はそんなことを本気で思っていなかったかもしれないが、実行犯は、少なくともそれを信じてた。テロリズムの論理は「何かを救うために、他の何かを犠牲にするのも厭わない」というからくりなのだ。単純な恨みは持続しない。だから人1人を殺せたとて、多くの人を傷つける原動力にはなり得ない。

 少し話がそれてしまったかもしれないが、善意がエスカレートすると、悪にならざるを得ないこともある。その善悪の逆転が、パラドックスなのだ。むしろ悪というのは、1つの正しさが、他の正しさに淘汰されたときに、その負けた方の正義観をそう呼ぶのかもしれない。

ここら辺は完全に僕の持論だし、明確な根拠を示すのは難しい。軽犯罪には当てはまんないし、もちろん例外もあるだろう。そんなものか、程度に思っといていただきたい。

他には「時間のパラドックス」なんてものもあるはずだ。産業革命以降、競争が急速に発達した。高い競争力には、合理化が欠かせない。合理性とは時間あたり生産力のことである。より少ない時間で、より多くの成果を。そうした、時間の切りつめが起こった結果、逆に時間が余り、その埋め方を知らないがために退屈する人が増えてる。そんな人々は、忙しさ以外の暇を知らない。だから、暇のための合理化を通じて、結局、忙しさを求めるようになるという逆説まで存在する。

 こうした逆説は、私たちの直観の逆を行く。なんで、そうした事態が起きるのか、次章ではそれについて、考察する。

逆説の原理論

 なぜ、こうした逆転は起きるのか?

ここで思い出すのは、スターウォーズのセリフだ。「光が強くなればなるほど、また、影も強くなる。」なるほど、逆説とはまさしくこんな状況である。

 ではでは早速、4つのケースに共通する構図を探っていこう。
 まず目的があり、それを満たすための行動が起きる。その結果、真逆の状況がより強調されるようになるのだ。この逆説は、人間には抗いがたい絶対性のもとに生じる。不可抗力のなかで、どうにかしようとするから、針が右に左に振れるのだ。

 どういうことか。

 例えば、科学の場合。多くのことを知った結果、わかる範囲とわからない範囲の境界が確定される。原理的に、科学ならば世界のルールの外側を知ることは不可能だ。人の認知が及ばない領域である。なぜ光速度cが一定なのか。解明する術はない。未確定を確定していくことで、立ち現れるものが不可抗力である。

 忙しさの逆説はどうだろうか?多分、ここで絶対の事柄とは、一日の時間が決まっていることだ。1日24時間。合理化を進めて労働時間を切り詰めようとも、一日の長さは変わらないから他の時間が余る。その空白できっとゲームとかするんだろうが、その時間は、合理性を必要としない非生産的な時間だ。生産性を追い求めても、結局時間の総量が変わらないから、非合理な時間も必然的に増える。

 豊かさのパラドックスも同じだ。このとき、最も大事なのはお金じゃない。目的意識、すなわち欲求の対象である。人には、果たすべき目的が必要だ。多くの人にとって、それは豊かさである。しかし、一度目的を果たしてしまったら、退屈。だから、豊かになれば不幸を求める。畢竟、豊かさの問題において絶対のルールとは、「人には目的がなければならない」という事実である。単に豊かさの問題ではない。

 善のための悪はどうだろうか。ここにおける絶対的前提(とされていること)は、社会の幸福の総量が限られていることだ。誰かの幸せと誰かの不幸がコインの裏表のとき、自分たちにとっての善をなすことが、相手にとっての悪になる。こうして倒錯が起きる。

しかし、本当にその前提は正しいのだろうか?問いかけは、前提からして間違いなこともある。人を傷つけずに良いことを為す可能性は本当にゼロなのだろうか?前提を疑うことは大切だ。絶対的なものは、絶対だと信じられているだけなのかもしれない。そのとき、絶対的前提は覆しうる。

 こうしたパラドックスは至る所で見受けられる。「永遠平和のための最終戦争」とか。その問題について直接考えると、どうしても罠にハマりがちである。「平和のためなら戦争してもいい」派VS「戦争による平和は望まない」派などなど。しかしここで考えるらくは、その問題の前提が疑いうるか、だ。どちらの立場に立つか、は最後の一手だ。それは個々の倫理観がなすことで知った限りではない。その前に、前提とされている「永遠平和と戦争がそもそも対立しうるか」について考えなくてはならない。

結び 

 逆説とかそういったものは、人間の認識の一面性・不完全さに由来する。
 AorBのいずれかの立場に立つことで、前提が読めなくなることもある。自明とされている前提自体がナンセンスなこともあるだろう。

 大事なことは、そうした認識の不完全さを引き受けることだ。<私>の見方は、疑いうる。バックグラウンドで認知の及びにくい力が働いているのかもしれない。そうしたことに思いを巡らすと、またおもしろい発見があるかもね。

もちろん今回私が唱えた説も疑いうるね、ってことで結びます。

投稿遅くってごめんなさい。またいつか。

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