【センスの遊び】優等生を爆破しよう /第一夜・センスの哲学

千の夜と一の夜
千の夜と一の夜芸術読書
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最近、芸術について考えることが多いような気がする。
前回投稿したのは、アートとエンタメという比喩的な対立を使っていろいろな作品の分類を考えた。エンタメ=気晴らしを目的とした、わかりやすさが売りなもの。アート=傷つけることを目的とする、わかりにくさが特徴のもの。

そしてほんと偶然なのだが、今回もまた芸術関連。

さて『千と一の夜』初回の第一夜は、千葉雅也さんが書かれた「センスの哲学」だ。この本は、アートと縁が薄いだろう我々一般人と芸術をつなぐ橋だ。テーマは「センス」。芸術鑑賞の視点だけで無く、制作サイドの話も書かれていて、現代思想・哲学・精神分析の話まで繋がっていて、かなりおもしろい。(それもそのはず、千葉さんは現代思想の人なのだから)
あと最後にはおまけとして、センスの鍛え方と巻末読書ガイドが載っているのも良いポイント。

ではさっそく行こう

千と一の夜、とは:
千一冊の書評をしようという企画。実現には40年かかるとか。

①上手い・下手の彼岸

どうも私たちは「センス」と聞くと、持って生まれてくるものとして身構えてしまいがちだ。実際「センスが悪い」なんて言われると、人格、とまではいかずとも、何か自分では絶対に変えられないところを否定されているようで、すごくもどかしい。

その場合、センスとは上手い・下手にまたがる評価軸ということになる。だが本当にそれでいいのだろうか?

というのも、センスをそのような軸で測ると、別の側面を見逃してしまうだろうからだ。
例えばの話、ピカソの絵は「上手い」だろうか?

私はそうは思わない。もしも上手い・下手で論ずるなら、下手に分類されるだろう。だって顔がゆがみすぎ。
でも、エネルギーがある。なんかよくわからないけど凄い。一方そう思うのだ。

センスとは、上手い下手に回収できない強烈な「何か」、上手い・下手が中途半端な再現性に終始するのだとしたら、センスはヘタウマ的な独創性と言えるはずだ。何かのコピーではない、自己表現。千葉さんの言葉を借りるなら、『「ヘタウマ」とは、再現がメインでは無く、自分自身の線の運動が先にある場合』である。

なぜ、上手い・下手の議論じゃいけないのか?それは上手い・下手の世界観は必然的にモデルを必要とし、評価軸が「どれほどオリジナルに近いか」によってのみ決定されてしまうからだ。

まるでイデア論みたいだ。神に似せてつくられた人が決して神にはなれないように、地上の世界(芸術作品)はどこまでいっても天上のイデア界(対象)の模倣、洞窟の影にすぎない。おんなじように、上手い・下手の話をどれだけ地面に描こうと、オリジナルの3次元とのズレが欠点として強調されるばかりなのだ。

 キウイの絵を思い出した。去年、友達が描いた油絵の。他の人がパレットを広げて絵筆で丁寧に塗っていくなか、彼はチューブから絵の具を直接キャンバスに出して、馬鹿みたいにでかい筆で大胆にキャンパスを汚した。完成品は、キウイの緑が皮をはみだしていて、丁寧だとはとても言えなかった。だけど私はその圧倒的なインパクトを残す絵が、凄く、好きだった。
(本人に伝えるとすぐ調子に乗るから何も言わなかったけれども)。

そのような上手い・下手の世界を抜け出して、ヘタウマに向かうとしよう。
すると次にすべきなのは、脱意味化である。

一日中お昼寝してたいと思う今日この頃

②脱意味化と、即物的リズム

ヘタウマを目指すなら、意味を求めてはならない。

…なんて言葉は私の漫言だけど、でも大上段に構えたストーリー的な意味をちょっと引っ込めなきゃいけないのは確かだ。だって意味を求めることとモデルに従うことは、イコールであるからだ。何かのストーリー的な意味を最初に措定して、作品を型に嵌めてくのってさっき言ってた、モデルのトレースみたいなもんじゃん。作品が記号化されるってことだぜ?

じゃあ、大きなくくりでの「意味」に抵抗するんだとしたら、(作品を作るにせよ、鑑賞するにせよ)どんな道が残されているのか。

作品そのものをとらえること、もっと言えば、作品を「リズム」として愛することだ。

例えば今一枚の抽象画を持ってきた。この作品が何を示しているのかは、私もよくわからない。なぜなら「抽象画」と検索をかけてかっこよかった画像を持ってきただけだからだ。

だから作者の意図として、この作品の「意味」を求めることはあんまり有意義じゃない。ここではいったんそういった作品の「意味」(物語性と言ってもいい)を横にどけておいて、画材の配置、空間のリズムとしてこの絵を捉えてみようじゃないかというのが、千葉さんの言いたいことだ。赤と青が対比されていて、その間に白色が挟まってたりもして、画面の左半分には赤色が多くて、それぞれの色も絶妙にグラデーションになっていて、なんかよくわかんないけど、かっこいい。そういうのでいいんだ。

「リズム」という語が指し示すのはもちろん音楽だけじゃない。赤と青とか、くっきりした線引きが太鼓のドン・ドンというような「ビート」に対応していて、赤と黒の微妙なグラデーションが「うねり」に対応しているし、そうやって「ビート」と「うねり」で二重化して作品を眺めることもできる。そんなリズムはこういう絵画にも適応できる。

リズムは、なにもずっと同じテンポを刻んでいるわけじゃない。ちょっとずつズレながら、あるいはビートを刻むように急激な変化を伴いながら、絵画でもなんでも作品のなかを流れている。リズムには一定の繰り返しのような類似性がありつつも、切断をともなうような変化があって、その規則と不規則のバランスが小気味いい。これを千葉さんは「予測誤差」という言葉を使いつつ、予測どおりになること=リラックス、予測から外れること=宙づりの緊張感、として、そのバランスが気持ちいいんだと言っている。

遊びとは。緊張と安心をなんども繰り返して、その流れ、境界を楽しむところにある。

かっこEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEE

③あふれ出るエネルギー

さて、そうして「意味」の枠からはみ出て無機的に構造的に作品を味わうことになったわけだが、次に問題になるのがその方法論だ。

さっき規則と逸脱のバランス感覚が気持ちよさだと書いた。改めてその二項対立で整理してみると、上手い・下手の評価軸は規則よりということになるし、もっと自由なエネルギーの爆発的なアート(それこそピカソの絵とか抽象画とか)は逸脱よりということになる。

で、脱意味化して作品を眺める・作るのだったら、この逸脱の側面、さらにいえば偶然性、を強く押し出していった方がいいんじゃないのだろうか。精神分析的にみると人間は「方向性=意味サンス」が過剰な生き物として捉えられている。単なる本能に甘んじて生きることができない。何にでも勝手に意味を見出してしまうのが人なのだから、たとえ適当に動画を切り貼り接ぎ木して並べたとして、それだけでもう「作品」の完成なのだ。だから硬くなる必要は無いし、その偶然性、脱意味性にこそ、「自分の線が先にある運動」としてのセンスが宿るらしい。

でもセンスと対の概念として、ここでアンチセンスという語もでてくる。もちろん作品の偶然性も大事なのだが、何度も何度も作品を作るうちに「あれ、ここって似てるよね」という感じで滲み出してくる身体性・無意識の癖がアンチセンスである。そのアンチセンスは、執念とでも言おうか、それはそれでまた味のあるもの、0と1を等価に扱うAIには絶対に出せないものである。そうした生物固有の必然性=反復もあって、でも偶然的な差異、自由な線の冒険があるからおもしろい。

千葉さんの話は結局、作品の「こうあるべきだ」的な形式よりも、内在するエネルギーをめちゃめちゃ自由に発散させていこうぜ!、ということに落ち着くと思う。それを前面に押し出すことで、「俺がルール」の「なんかよくわからんけどすごい」状態、再現性から独創性へシフトできる。その構造は、意味から離れて、さまざまなリズムの体系として捉えることができるし、そこには反復と差異が潜んでいてい、偶然と必然のバランス、センスとアンチセンスが対を為していて、複雑な味わい、おもしろみが自然とでてくるものなのだ。
…もし強引にまとめるならこうなると思う。

だからお前は、下手に意味なんかに固執するな!自分のありのままを表現しろ!、と言われているようで私はすごくやる気が湧いた。

ちょっと芸術の「価値」を俯瞰してみる

ここから先は私の考えも交えて。

アートに意味はあるか。

無い、と言えば無いとも思えるし、有る、と言えばあるようなものの気がする。別に言葉遊びをしたいわけじゃない。ただ、アートの価値はあくまでも主観的だということだ。(「人生の意味」とか「勉強の価値」とかだって、結局は個人個人が一つの単位として、永久に交わることがない以上、同じことじゃなかろうか。)

芸術は何のために存在するのか、と問うてみてもいい。千葉さんは、芸術とはとは自己目的なこと、と話している。

自己目的とはつまり、究極的に言えば、遊びである。ただ遊ぶために遊ぶ。遊びたいから遊ぶ。「そんなことに意味なんかあるの?」と思わず問うてみたくなる気持ちもわかる。コスパの時代と言われて久しいが、そこで求められているのは目的適合性あるいは経済合理性である。自分の究極の目標があって、たとえば「大富豪になって働かずに生きていく」とかなんでもいいが、そのために会社や労働や煩雑な人間関係は手段に過ぎなくて、目的に奉仕するためだけの「材料」に成り下がってしまっている。

ただ、私はずっと疑問に思っていることがあるのだ。

「そんなに時間を節約して、余った時間で何するの?」

結局、人生はコスパだけでは生きられない。誰の言葉だったか忘れたが、「本当にコスパ良く生きたいなら生まれた瞬間棺桶に入るのが最適解」なのだから。手段を最適化して、働く時間を短くすればするほど、今度は時間が余ってしまう。もし「タイパ」しか頭に無いんだったら、ここでどうしようもなく行き詰ってしまうのだろう。その余った時間をまた節約してさらに節約して、「タイパ」のためにささげることはできない。割り算で出た余りを、それ以上割ることができないように。

何が言いたいか。

例えばの話、今ここに「大富豪になる」と宣言している非常にIQの高い人がいると仮定して、彼は賢いのだから、すぐにでも起業したり株を売買したりして大儲けできるだろう。その手段は目的へのムダを省いたすごく合理的なものだ。だけど一方でその目的は、「大富豪になって何がしたいの?」と問われたら「皆に認められたい」「なんで皆に認められたいの?」「……」、という風に、それ以上の理由付けをすることができない。

手段は、コスパに見合うように最適化できる。賢く生きている人は、手段を完全に100%合理化して無駄をなくしている人だ。だけど一方その「合理性」はどこまでいっても砂の上の城に過ぎない。なぜなら、手段が乗っかている土台、「それが何のための手段か」という目的自体に根拠がないからである。

だからあらゆる究極の目的は不合理で、無駄、ということになる。まあ、当たり前のことだ。だってそもそも私たちの生じたいが無目的な進化のうえに生まれた、意味なんかないものなのだから。

と、すると「コスパ」信仰は、目的信仰である。その目的を絶対不変の価値を持つものとして、信じることができなければ、その行動原理すなわち生き方の指針さえも崩れてしまうのだろう。なんだか「モモ」の世界観に似ていると思った。市民たちは、時間泥棒に騙されて、寿命を延ばすためにせっせと時間を貯めようとするが、最後にそこにいたのは伸びた時間でひたすら効率化された労働をし続ける「人力機械」だった。(もちろん話はさらに続くが)。この演劇をやったのは小学生の時。最近になって深さが身に染みるようになった。

この本の本筋から少し離れたところで、「丁寧な生活は、コーヒーを淹れる時間を楽しむこと」のように書いてあった気がするが、ここが私としては読んでいて一番刺さった。日常を目的として愛することだってできるはずだ。

『芸術とは、時間をとること』。最後の章で、千葉さんはそう言った。時間をとる。余った時間を何に使うか。この考え方の軸が足りていなかったとちょっと反省させられる読書であった。

アートを、目的のための手段と見るか。それとも一つの目的として見るか。どちらでもいいし、両方を取ることもできるが、その視点を変えたときに、アートがすとんと感性に落ちるようになるのかもしれない。

まとめ

さて今回話したセンスの哲学、どうだったでしょうか。かなりおもしろかったし、そこから思考を広げられるような、私にとっては、種のような本でした。

センスとは、ヘタウマである。記号化から抜け出て、物語的な意味と、作品それ自体の単純なリズムの両方を楽しむことが大事。

これからの自分の在り方、スタイルを見つめなおそうという意欲がきっと湧くと思います。

では最後に一言。

「我々は、チェスのためにチェスをすべきだ。」

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(千里の道も一歩から。千一冊目まで、あと千冊) 
グッド・バイ。

ニャーー

コメント 感想をください!

  1. センスを磨くには、まず基礎から学ばなきゃいけませんから難しいですねぇ…

    ピカソのあの子供のような絵は、「キュビズム」と表現されています。「キュビスム」というのは、モノを多方面から見て、幾何学的にとらえ、平面上に合成したものです。
    つまりあの特徴的な画風は、絵の基礎を応用したものなんですよ〜。ピカソの絵は、単純そうで難解なんです。

  2. キュビズムフォビズム、美術でやったなー
    あれこそまさに「芸術は爆発」ですよね
    ああいった絵画こそ、(丸山眞男の言う)「である」的な、大衆の趣向に迎合せず、実用ではなく、それそのものが価値を持つ「芸術」なんだなと
    ピカソといえば、ゲルニカが私の中学に飾ってあったんですけど、やっぱりその気持ち悪さの印象が強く残ってるんですよね。ただ今思うと、もしかしたらその気持ち悪さをゲルニカで表現したかったのかもしれない

    いつかちゃんと芸術を知りたいですね……

    (返信めっちゃ遅くなってごめんなさい。昔送った気がしてたんですけどなんかの手違いで返せてなかったようです)

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