<私>が薄れてはいないだろうか?
やりたいことがわからなくなる。常にネットを見てしまう、退屈の永久機関。すべては価値判断をする<私>の不在によるものである。今こそ<私>を取り戻そう。
これが、この本の主題である。要は<私>の内側の声に耳を傾けよう、という内容だ。なかなか読み進めるのも苦労したが、かなり読み応えのある内容だった。それでいてお値段980円!
また得をしてしまった…
今回書く内容で興味を持ったら、ぜひご自身で買ってほしい。
1章 <私>不在現象
※要約を書く上で、ブログを書いてる私と読者の皆様自身を区別するため、私と<私>という表現を用いよう。
~<私>の空洞化~
私たちは、サイバースペースで過剰なつながりを得た。しかし孤独を感じるのはなぜか?ー本来思考の中枢にいる<私>が、薄れているからだ。要は、自分と向き合うことがなくなっているのだ。だから、<私>が今何をしたいのか、<私>にとって本当に必要なのは何かを見極められなくなっている。「なんのために?」への答えが抜け落ちたため、あらゆることが無価値に思える。退屈の永久機関である。
さて、退屈に抗うために、現代社会では2つの欲が働いている。社会で善いことを為したいという欲望(善への意志)と、何かに没頭したいという欲望(動物化の欲望)である。しかしどちらの欲もあいまいで不十分なため、退屈が残る。そしてますます自分の外側の世界への依存を強めてしまい、<私>が薄れてしまう。
<私>が希薄になることで、ある一つの正しさだけを唯一絶対のものとしてしまう危険がある。他の考えへの不寛容を招く。だから、<私>自身で考える姿勢を養おう。そのためには、<私>を受け入れて、思考の原理を身に着ける必要がある。
これには、私にも思うところがある。YouTubeなんかを見ているとき、<私>が自ら検索してなにかを見るより、関連動画から与えられたものばかりを見てしまう。「選び取る」という能動的なアクションをしているようで、実は「選び取らされている」。そしていつのまにか、自分が最初に何を見ようとしていたのかも忘れて、一日が終わる。
こんな感じで、常に暇つぶしに急いていると、自分の内面を見る時間が少なくなってしまう。<私>は考えたくないから、ノイジーな刺激に身をゆだねる。考えない癖がつく。<私>に本当に必要なものは何か?-まず第一に、世界の側を見るより、<私>の意識の内側を探るべきなのだ。
下の段落の2つの欲望は、ひょっとしたら理解が難しいかもしれないが、あまり気にすることはない。私は、ゲーム等をして退屈を凌いでいるが、一方ではネットに倫理的な文章を載せることで個人的な欲望と社会的欲望を満たしていて、退屈を和らげている。-こんな状況だ。
そして現代では、「人それぞれ」に分化してしまった倫理観を統一して、善いことを決めようという意識が働いている、という思想の潮流に変化が起きている。そういう流れがあることを理解できればそれでよい。
こんな感じで、今こそ<私>を取り戻す必要がある、ということを説いたのが第1章だ。
2章 新デカルト主義の考え
さて、ここからは筆者の主張に入っていく。
~<私>に求められる態度~
まず<私>の哲学でキーとなるのは、<私>の絶対性と有限性である。
①絶対性とは、<私>の意識が<私>にとって絶対的存在であるという性質だ。<私>は<私>の認識から離れられない、それが絶対性である。②有限性とは、<私>の認識の不完全さのことだ。…私たち人間は皆、この条件に縛られている。その点で、私たちの認識は対等である。
次に要点になるのが「エポケー」である。これは、判断がつかない事柄については判断を保留するべきだという主張だ。「決めつけない」-これにより、私たちは相互理解の可能性を持つ。
エポケーを駆使すると、一切を<私>の意識レベルでの<確信>とみなすことができる。あらゆる主張さえも、一つの<確信>=思い込みかもしれない。
「A/Bのどちらが正しいか?」という対立は解決できない。そこで「AまたはB」の判断を中止する。代わりに「それぞれの立場が確信しているA/Bという主張の内容と、それを組み立てる条件は何か?」と問いを変換することで、主張の前提に共通性を見つけることができる。
筆者の主張は3つである。①あらゆることを疑って、原点の<私>の地盤を固める。②疑わしいことについては判断を保留する。③<私>の認識の絶対性と有限性を自覚する。ー<私>にとって正しいことは相手にとって正しいことじゃないかもしれない。だから、決めつけずに認識を共有していく姿勢が求められるのだ。
エポケーに関しては僕が以前から思っていたことでもあるので、すんなりと理解できた。決めつけることはこだわりを生み、こだわりは負の感情を生む。般若心経にも似たようなことが書いてあったな。
一度決めたら引っ込めなくなったりもする。変に意地をはって、他の意見を排除してしまうのなら、話し合う価値などない。安易に決めない態度、しかし最後には<私>で答えを造ろうとする態度こそ最善なのだ。
共有の価値をつくること。答えがあると決めてかかると調停不可能な対立が生じかねない。<私>と相手の対等性、それに根差した合意への到達を目指そう。そのための判断保留・エポケーである。
3章 ポストトゥルースの思考法
ポストトゥルース ー世論形成において、客観的な事実より、虚偽であっても個人の感情に訴えるものの方が強い影響力を持つ状況。事実を軽視する社会。(コトバンク)
不確かな情報のあふれるこの時代に、どのようにして確固たる<私>を築いていけばいいのか?
それがこの章のテーマだ。
~<私>と<私>の関係性を築こう~
私たちは、正しさをめぐって争いがちである。しかし、最も大切なのは、共通の価値の創出であり、想像力やエポケーを駆使した慎重な姿勢である。正しさよりも相互承認。言論はあくまで協働のプロジェクトだ。何かを決定するとき、究極的には力か言論かの2択しかない。私たちは言論により暴力をコントロールしなければならない。暴力の伸長を防ぐべく、「人それぞれ」の殻に閉じこもる相対性にも、「唯我独尊」の独断主義にも対抗するためにも、謙虚な態度が大事なのである。
さて、我々は今、ポスト・トゥルースと呼ばれる、不確かな情報に塗れた社会にいる。「陰謀論」はその象徴として捉えられるかもしれない。なぜ、このような偏った見方は広まるのだろうか?ここで役に立つのが、「奇蹟のヒューム的解明」だ。宗教、神話、奇蹟。なぜ、自分の経験ともマッチせず、起こりえないはずの「奇蹟」が確信されるのか?それは情動が理性を鈍らせる働き ーありえないから楽しく、楽しいから広まるという性質ー と、知的興奮により理性を満足させる働きに由来する。また陰謀論においては、不公平さの裏に誰かの悪意を読み取り、苦しさに意味を見つけたいという欲望、1章に出てきたような「善いことをなしたい」という欲望が絡まっているのだ。
私たちはポスト・トゥルースをどう生きればよいか?大事なのは思考の原理と世界への態度だ。小手先の技術では変わらない。<私>自身で深く考えて思考の出発点たる<私>を固め、他者との協働を通して共通理解を創出する謙虚さを持ち、ポストトゥルースの不透明さを解消すべきである。
言論が正しさをめぐる争いになっている、というのはまさしく「論破」のことだろう。小学生が互いに「はい、論破~」って言ってたりする。ネットでよく見るだろう。なんとか相手の意見を屈服させようという試みは、はっきり言って、見苦しい。
相対主義と独断主義については、説明不足だったので補足しよう。相対性は、多様な正しさのありかたを認めようという主張である。独断性は、価値観を一つの正しさに統一しようという主張である。この2つは対を為す。(そして「論破」は自分にとって正しい考えが誰にとっても正しい考えだとする一種の独断主義である。)
一方で「それってあなたの感想ですよね?」こそ、相対主義のあらわれだろう。感想とは、人それぞれが持つ主観的な決めつけのことである。相手の”意見”を感想まで「格下げ」するならば、その考えはあなたの主観の内側=他の人には通用しない、ということを言っている。もちろん、決断を下す場において、主観だけで成り立つ感情論は排除すべきだ。正しい。ただ何よりも、複数のバラバラな価値観があり、お互いに理解し合えないという主張が相対主義だから、話し合いの場でも相対主義に陥るべきではない。
そして対極にあるはずの相対主義と独断主義は実はつながっている。「世の中には多様な考えがあっていいんだから、絶対的な<私>の意見も認められるべきである。」こうして相対主義は独断主義を許容する。逆に、複数の「<私>の絶対的意見」があるとき、それは相対主義になる。なんて不思議。
決して、そのどちらにも陥ってはいけない。謙虚さは大事。謙虚さは大事。
4章 ネガティブなものを引き受けるー<私>を認める
ついにラストの章!
すべての<私>が同じ立場に立たされている。そのなかで、普遍性をどう基礎づけていくか。事実を確信させる条件が固いとき、<私>は事実を信じざるをえない。そうした<条件の固さ>が普遍的確信=わかりあえる可能性を作り上げる。
例えば、科学的知識は、誰がどう言おうと正しい。中世では天動説が正しいと信じられていたが、それに関わらず地球はせっせと回っていた。そうした根拠の積み重なりは、あらゆる<私>の確信を覆す可能性を持つ。そうした、信じるに値する条件がそろっているとき、それは万人にとって共有可能な合意となるのだ。
ここからこの章の本題。「<私>を受け入れる」についてだ。
~いろいろひっくるめて<私>を認めよう~
さて、これまでの話で見落とされてきたことは「迷い」である。そう簡単に問題の本質がつかめるわけがない。時間制限の中で不確かな選択しなければいけないとき、どうしようもなさが<私>を襲うかもしれない。迷っている状況を直視せずに、認識を捻じ曲げるのは簡単だが、それは「逃げ」になる。ここで大事なのがエポケーだ。判断から逃げず、立ち向かわず。決断を下さないことは、耐える力になり、肩の力を抜けることもあるだろう。
<私>の有限性とは、<私>の不完全さ、すなわち<私>の弱さや脆さである。このネガティブな側面は普通、嫌なものだ。「もっと~ならよかったのに」が付きまとう。しかし、この有限性があることで、<私>は<私>でいられる。サイバースペースでは<私>を自由にデザインできるが、そのせいで<私>の輪郭を失いつつもある。自分を好きなように変えることは、世界の実在感を薄めるのである。<自分ではどうしようもないこと>が<私>の核にあると言ってもよい。そうした「摩擦」が世界や<私>のリアリティを醸す。
だから、<私>にとっての「摩擦」=弱さ・脆さを受け入れることが、<私>やつながりのリアリティを深くするためには不可欠なのだ。
2章で出てきた、<私>の有限性。それがこの章にきて大きな意味を持つ。<私>に弱さがあることで、<私>は世界の実在を信じられる。例を挙げると、もし私が急に野球なんかを始めていきなり甲子園に行ったら、私は現実を夢と錯覚することだろう。往々にして世界というものは思い通りにならない。唯一思い通りになるのは、自分の支配下にあるものだけだ。
だから、内申点はオール5にはならないし、授業中に眠ってしまうこともある。しかし、そういうマイナス面があることで、私はそれが現実であることを確かめられるだろう。
さらに、ここで出てきたのが弱いロボットの例である。弱さを持つことは、弱さを介した協力の余地を残す。<私>は完璧じゃない。だから、他人は<私>に手を差し伸べてくれるし、<私>もほかの人を助けることができる。それが人の連帯だ。
私たちは、常々不確かな決断にさらされる。そのなかでは、迷っている自分を肯定するためにも、迷いを受け入れなければならない。迷いを受け入れることは<私>のマイナス面を受け入れることだし、それを認めることで、他者に謙虚に望む姿勢を構築できるのだ。
まとめ
<私>が薄れることで、退屈や無意味さや対立が生み出された。<私>を確かなものとするためには、安易に決めつけない・合意への到達を求める謙虚な態度である。そうした態度をすべての人が一貫させることで、言論による相互理解の可能性が生まれる。やがて、その謙虚さは<私>のどうしようもなさを認める原動力となり、<私>の世界に確かさをもたらしてくれるだろう。
これがこの本の結論である。途中はやや難解かもしれないが、ゆっくり紐解けばわかるようになっている。僕としては、「すべてを<私>の確信と思う態度」から共有可能な結論が導かれるというのが直観と反していておもしろかった。<私>の内側に、惑わされない静謐な空間を作り、キャッシュを削除する。難しいが、今こそ私たちが読むべき本だと思った。
さて、今回はこんなところで終わりだ。なんと、この記事を書くのに6時間ほどかかった。疲れたけどがんばった。
ではまた次回。
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