合理性に抗うことの自由 -『目的への抵抗』國分功一郎

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「自由とは、目的への抵抗である。」

つい少し前、コロナ禍で「不要不急」が強調されていただろう。「感染予防のために、くだらないことは控えろ」という社会からのメッセージ。じゃあ、生存以外の価値はなんなのか。目的とは何か。そう反論の声をあげるのが、今回読んだ本「目的への抵抗」である。

目的とは何か。ハンナ・アーレントという哲学者の言うには「目的とは、手段を正当化するもの」であるらしい。なるほど。平和のため、と言えば多少の人権侵害は許される。感染防止のためには、自由の制限も必要だ。べつにそれは悪いことではない。

だが、「目的崇拝」一色に染まるのは、危険ではないか?誰も異を唱えない、というのはそれだけで危険なことではないか?崇高な目的というのは、現実から目をそむけるために利用される。

筆者の国分氏は、目的崇拝を後押しするものとして、資本主義をあげている。大量消費が前提となっているこの社会では、「あの商品を買え」「この経験を買え」というメッセージで溢れている。僕たちはからっぽな器となって、外部から与えられる目的を待っているにすぎない。そして回って、回って、回って、最後にはどっちを向いてるのかもわかんなくなる、そんなオチだ。

そのような人々を僕たちはよく知っているはずだ。「最新の流行」という情報=記号を消費するために、お金を使う、ブランド好き。レジャーランドのCMにつられて出かける人たち。周囲からの評価を得るために、お金を消費する人たち。多かれ少なかれ、僕たちにはそんな側面がある。そしてそのような記号消費には、実体がないため、際限がない。

それは果たして自由だろうか?与えられた記号を追いかけることに明け暮れるというのは、空しいような気もする。

だから僕たちは、<目的>のために<行動>をしないことの自由を、享受すべきだ。

チェスのためにチェスをすべきだ。

考察

僕個人としても、目的合理性のために行動している、と思い当たる節がたっくさんある。その合理性を解きほぐすために、いずれ行動をみなおしたいところ。

さて

なんで僕たちは目的なしじゃ生きられないのか。

もっともだと思った答えは「現代思想入門」に書いてあった。僕たち人間は高い能力(認知、道具製作等)をもっている。それゆえ、本能からの自由度が高い。(たとえば、僕たちは食べ物を得る手段が何個もある。その手段というのは遺伝子にはコードされていない=生まれてから身につけたものである)。

本能から自由であるというのは、悪い面もともなう。従うべき行動の指針がなくなってしまうからだ。本能のままに生きる、という動物にとってあたりまえのことが、人間には難しい。だから制約を求める。行動の制約、つまり目的が必要となるのだ。

(追記:「暇と退屈の倫理学」の6章の環世界の不安定性、人は世界創造的・動物は世界貧窮的、というのも同じようなことを示している。一年越しに理解)

目的についてだが、「目的への抵抗」の著者の國分氏の書いた「暇と退屈の倫理学」で印象的だったことがある。

僕たちは、生きている意味の欠乏を感じている。やりたいと心から願ったはずのことは、選びとらされたものであるということにも気づいている(言い換えるなら、自分の欲望が、他人の欲望の模倣である可能性に自覚的だということ)。だから没頭を求める。大義のために死ねる人がうらやましい。(序章)

もし暇への解決策として「熱意」だと答えるならば、外から使命を押しつけてやればいい。たとえば、戦争。(第1章)

こんな感じのことが書かれていた。今、記憶を掘り返しているだけでも、確かになと思う。それだけ「目的」というのは取り扱いが難しい。

ジャック・ラカンという精神分析の人曰く、人間は一時的な目標(対象a)を追い求めては失望を繰り返し、ついには核心に辿り着くことができない。そういう人間観もあるくらいだ。あまりに悲しい考えではあるが。

目的をどう受け止めるか。目的に縛られることは、自由の束縛を意味する。反対に目的に抵抗することは、自由を意味する。だが、「自由は不安のめまい」なのだ。(キルケゴールという哲学者曰く)。だからある程度の制約は欲しい。その制約=目的は、お金かもしれないし、評価かもしれない。

目的と、目的への抵抗というダブルスタンダードで考えることが必要なのではないだろうか。

いろいろ考えされられる本だった。(個人的には、前半の行政あたりが少し退屈だったが)。暇と退屈の倫理学と同時に読みたいところ

グッド・ナイト

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