疑問・反語・詠嘆は三つ子 ←なぜ?

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 「なぜ疑問と反語が同じ文型なの?」

 皆さんは漢文を習っているときに疑問に思ったことはないだろうか? 漢文に限らず、英語でも、日本語でも、反語は疑問文で表される。これはいったい、どういうわけか。

「どうして、疑問は反語と同じ文型なんだろう?」

 反語と疑問を問うには、まずそれぞれの定義をはっきりさせなければならない。

 疑問文とは何か。私は、疑問文は3つの要素を持つものだと考える。①未解明の事柄に対して、②答えを知るために、③問いかける行いである。
 整理するために具体例を挙げよう。私は数学が少し苦手だ。だからわからない問題があったときに、よく隣の席の友達に答えを尋ねる。こんなときこの質問は、①未解明の事柄(問題の答え)を②友達に質問することで③答えを知ることを目的としている。疑問形は基本的にこの3要素を満たす。
 なお、注意したいのは、問いかけは必ずしも他者を必要としないということだ。「自問自答」という言葉の通り、心のなかで問いかけることだってあるだろう。

 では、反語はどうだろう?反語の文章の共通性は何か。まず反語そのものをイメージするために、いくつか例文を挙げる。
「そんなバカなことってある?」「雲一つないのに、雨が降るだろうか?」「どうして勉強をするのに、ゲーム機を使う必要があるの?」

 反語において重要なのは、逆説的なニュアンスが入っていることだ。「~なんてことは起こりえるだろうか。いや、ない。」。大事なのは後ろの文、「ありえない」ということだ。だとすると、前の文章は後ろの文を強めるための引き立て役である。こんな感じで反語の本質が見えてくる。反語を成り立たせる要件は、①わかりきっている事柄に対して、②同意を求めるために、③問いかける行いである。

 こうして、「なぜ問いと反語がいつもセットになっているのか」がわかる。

 まず、疑問と反語の相違点は①(動機)と②(目的)である。つまり、疑問はわからないことに直面したときにヒントを聞き出すことを目的だが、反語はわかりきったことがらに対して相手からの同意を取り付けることが目的である、という違いだ。しかし、疑問と反語は、③問いかけという同じフォーマット(形式)を通して行われる。
 目的や動機が違うから、2つの文体はそれぞれ別様に生まれるが、実際に行われることは「問いかけ」という同じ行いである。だから、この2つはいろんな言語でセットとして扱われる。

「詠嘆も、共通性があるなあ。」

 ところで、漢文では「疑問・反語・詠嘆」は全て同じ文型である。「詠嘆」。こいつはいったいどうなのだろうか?

 例えば、「もう秋が来たのか。」「なんてのどかな田舎か。」「空の蒼いことよ。」は全て詠嘆だ。日本語では、詠嘆は文末に「か」や「なぁ」がつく。疑問文も「~だろうか?」「~かな?」と文末が「か」や「なぁ」で終わることが多い。なんとこの2つには親和性がある。

 私は詠嘆を、①いまや自明となったことがらに接して、②現状を認めるために、③問いかける行為だと定義したい。詠嘆を一言で表せば、目の前の状況をそれとして認める試みである。だから、詠嘆の文章を「~なんだね。」と強調・念押しの文章に置き換えることができる。この問いかけには、確実な状況を前にして、答えのわかりきった問いをぶつけて、もう一度認識するという意味がある。そのため、詠嘆は本質的に他者を必要としない。

 ならば、詠嘆も、疑問も、反語も、一つの血を分かつ三つ子だ。性格はある1点によって、少しばかり異なるが。 1点、それは、「確信度合い」だ。

 質問形式で投げかけることがらが、
  Ⓐ「その通りだ」とわかりきっているときは「詠嘆」
  Ⓑわからないときは「疑問」
  Ⓒ「起こりえない」とわかりきっているときは反語

という3通りの区別が、同じ文型に対して行われている。

 ちなみにこの定義においては、詠嘆と反語は近しい存在である。疑問文が真偽を確定させたいと思うのに対して、どちらも同意を求めたいという共通の性格を持つからだ。

結び

 質問という一つの形式を通して、全然異なる3つの形態が生まれるんだから、おもしろいとしか言いようがない。「言葉って深いなあ。(詠嘆)」と実感した今日この頃。

 そういや、疑問文が便利だよねーと思うのは、人に話しかけるとき。相手に対して質問をするのだから、そこにコミュニケーションが生まれる。文章って究極的には、断定か疑問かの2択しかないように思えるんだけど。前者は、「僕はこう思う。」という心理的事実で否定しようがないのだけれども、後者の疑問は「~はどうかな?」という否定も肯定もいかようにもできる、真偽が確定されてないからこその交流の余地があると思うんだ。はっきりしないから、妥協ができる。コミュニケーションの語源は「common:共通の、普遍の」と同じで、共通価値をつくることがその意義のはずだ。未確定な事柄への疑問があり、だからこそコミュニケーションが存在し、質問形式によって会話が始まるのかな~、なんて考えた。逆に、質問されたら答える義務が生まれるから、面倒なときもあるけどね。
 皆はどう思う?

 ……と、今回はこんなところで終わります。また次の記事で。

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