【書評】ヴィトゲンシュタインによる究極の理論とは?ツチヤ教授の哲学講義#3

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この記事は「ツチヤ教授の哲学講義」紹介の最終回です。(これ単体でもお楽しみいただけます)
今回はこの本の核となるヴィトゲンシュタインの「究極の理論」を解説していきます。なにが究極かというと、これまでのすべての哲学的問いが無意味である、というものです。
それでは、ゆっくり楽しんでってください。

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ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム

彼は言語ゲームという考え方をしたことで有名で、すべての哲学的問いは言葉の誤解から来る、と考えました。そのエッセンスをまとめると次のようになります。

言語ゲームとは端的にいうと、「言葉の運用の仕方をゲームのルールになぞらえて説明する」という考え方です。サッカーをするときに私たちはサッカーのルールに従いますが、言葉を使うとき私たちは言語ゲームに従っているのです。言葉の運用というのは、例えばカフェに入って「コーヒー」と言ったときにコーヒーが運ばれてくる、といった具合です。このときの「ルール」は「コーヒーと言ったらそれが運ばれてくる」というもので客も店員も行動を通じてそれに従わなければなりません。また、コーヒーという語に関するルールは状況次第でいくらでも規定できます。例えばしりとりをしている状況においては、「コーヒー」と言われたらそれに続いて「ひ」から始まる単語をいうのが「ルール」です。

おそらく皆さんは「なんでこんなまわりくどい説明をする必要があるのか」と思ったことでしょう。(私も読んでいるときはそう思っていました)
しかしこの考え方をすることで解ける問題もあり、かなり有力なツールになるそうです。
例えばコミュニケーションに関しては①伝達する人が心にそれ自体のイメージを抱く②それを言葉に変換する③相手が言葉からイメージへと逆翻訳する、といった言説が有名です。しかし言語ゲームという新しいモデルによって、私たちのコミュニケーションがよりリアルに即して見えてきます。私たちは実際、会話中に伝えたいもの全てをイメージはしませんし、「コーヒー」と言ったときに、相手はただ「コーヒー」のイメージを思い浮かべるだけで終わりません。

言葉の用いられ方を支配する「ルール」を分析することで、その単語の本質的な意味を知ることができろう、というのが「言語ゲーム」が有益たる所以です。(言語ゲームで哲学の問題がどう解けるか、というのは省略します。詳しくは本を読んでね!)

「誤解の哲学」の例

自分の「ほんとうの性格はなんだろう」という問いを建てたとします。例えば「私は正直か」という文のように。

このとき言葉を誤解すると大変なことになります
一見「私は長身だ」というような文と「私は正直だ」という文は同列とみなされがちですが、実質はかなり違います。なぜなら「正直」というのは「私が事実に即したことを言い続けてきた」、という自分の「選択」の結果であり、それに対して長身は自分の行為いかんに関わらず成立している事実だからです。そして「正直」かどうかは自分の行動によって決まったことであり、それは「私は今日カレーを食べるか」という問いと同じです。
自分の行動を他人に聞くという意味のない質問です。しかしこれを誤ると、「ほんとうの自分の性格を私は知ることができない」と自分自身を否定しながら生きていくことになってしまいます。

「哲学の問題を全面的・最終的に解決した」究極の理論

ある命題が真か偽かをしるとき、それは「文」と「事実」が一致しているかで判断できます。

このとき「文」は突き詰めていくと、要素の組み合わせとなります。(なぜ1つの要素ではないのかは、私たちが初見の文章を理解でき、初めて見る単語を理解できないことからもわかります)
そして「事実」も同様に対象の組み合わせであり、「文」も音が特定の順番で流れてくる・記号が一定の順番で並んでいる、というような事実の一種です。

では文と事実が対応するというのはどういうことでしょうか?
これは事実と文が相互に変換できるということです。例えば楽譜に書かれている「文」を、左から時間的な流れと音の音階に置き換えることで、曲という一つの「事実」に変換できる、といった感じです。逆もまた然り。

そしてこのように文と事実を対応させることで、文と事実のどちらか一方に統一し、文と事実の比較が可能になります。そして比較ができるということは当然、真偽を判定できるということです。つまり真であるとは事実と一致するということだ、と言えます。

※この赤線すべての対応関係が成り立つとき、文と事実は対応している

それでは意味・無意味はどういうことかというと、要素と事実の対応が成り立たないということです。例えば、音名で曲をあらわすときに「ド・レ・ミ・ファ・ソ・パ」みたいに謎の要素が入ってきていたら、これを曲という事実に変換できません。こういったときにその文は無意味であると言えます。

そして事実を知ることは正しい文を作る、ということです。それはつまり事実を文に変換して、同じようなコピーを「文」という形で保存しているに過ぎないのです。そのため、私たちは事実をコピーして知ることしかできず、本質を知ることは不可能です。
例えば水の本質は?と問われたときH2Oという答え方が最も妥当です。しかしそれはH・O・2といった要素それぞれを化学物質に変換したに過ぎず、水と同じ構造を持ったものを作り出したにすぎません。
こうしてみると、結局事実とは何もかもが解明不能なのです。

では今までの哲学的問いはなんだったのか。私たちは事実を超えたものを知ることができないため、善・美・世界・意味など知ることができないのだと考えました。そして解けないことがわかっている問題はもはや問題であることはできません。よってすべての哲学的問いは「無意味」なのです。しかしここで誤解しないでもらいたいのは、彼は哲学の問題は解決できないという解決をもたらしましたが、それが「哲学にはなんの価値もない」と否定したわけではないということです。哲学の問題は解決されないが、解消されなくてはいけない、と。

「語りえないものについては沈黙しなくてはならない」
そして彼は哲学から身を引きました。

まとめ

いやー難しかった!!
まず読んで理解するのが難しくて、さらにそれを記事にまとめるのが難しかったです。

私のつたない文章ではこの本で紹介されている内容を説明しつくすことはできなかったと思いますが、なんとなくで理解していただいて、本の魅力が伝わっていたらうれしいです。

ではまた次回会いましょう!!グッバイ

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