今回読んだのは内田樹著の『寝ながら学べる構造主義』だ。構造主義といえば20世紀後半の哲学の大きな潮流である。
僕たちの今生きている21世紀はポスト構造主義の時代と呼ばれている。ポストは「〜の後」を意味するラテン語であり、今の時代は構造主義以降ということになる。でもそれは構造主義がもはや役たたずな思想になったことを意味しない。むしろ、構造主義が常識になったがゆえにあえて持ち出すまでもない、そんな状態なのだ。僕たちの先輩は何をどう考えていたか。構造主義とはいったい何だったのか。
構造主義とは?
一言で本質を述べると「人間の本質は、人間の内側にあるんじゃなくて、その外側の構造によって定義されてる」ってことなんだと思う。
もっと詳しく言えば、「僕たちの行動・思考は自由意志に基づいているように見えるが、実はなんらかのシステム(社会構造?)の影響を受けている。つまり、僕たちが自律的に見て、意識し、考え、選択していると思っていることは、社会・言語・心理・階級によって見せられ、意識させられ、考えさせられ、選び取らされているのだ。だから人々は、システム内の特定の価値観のなかでしか物事を考えられないし、異なるバックグラウンドの人々では価値が違うんだから、普遍的な正しさはありえないんじゃないの?」、と言う。
なるほど、僕たちは普段、自分の行動は自由で自分のやりたいように動いていると思っている。だけど、それは巨大なシステムでそのように洗脳されているだけかもしれない。僕は夕食のメニューとして、お茶漬けかカップラーメンかを自ら選んでいるように見える。だけどその選択肢には、昆虫食だったりアイスクリームチャーハンだったりがそもそも入れられてない。それは僕がふつうの日本人として、そのような価値観に触れることがないように教育されてきた、と考えることもできる。この想像力の限界は、階級・帰属・言語などなどによってもたらされたものかもしれない。
そして後半部分だけど、今ではもはや常識となっている。自分と相手で捉え方が違うんだから、どっちかが優位だと主張することはできないよね?…ただそれだけの話だ。日本人にとって昆虫食は「ゲロキモ」な食品だと思われてるが、祖父母世代からはイナゴを食べてた話とか、アフリカでバッタ食べてたりする話とかを聞くことがある。「こんなキモイ食品を食べるだなんて間違ってる」と自分の価値観を押し付けることはできないよねー、っていうことだ。つまり。
構造主義前史
さてここからは構造主義の(というより近代の理論の)礎をつくった先人達のお話。マルクス・フロイト・ニーチェの3人が挙げられてる。こいつらの共通点は「僕たちは自由に物事を考えているようで、実際はいろんなものにがんじがらめにされているんだウンヌン」とを言ったことだ。
マルクスの主張は「社会階級ごとに考え方のプロトタイプって決められてるよね」という話。そしてもう1つ。「僕たち人間が何者であるかは、生まれ持った特徴じゃなくて、本人が成し遂げたことによって後から知らされるんだよね」とも主張した。脱中心化とも呼ばれるらしいけど、この考えにはめっちゃ共感。(これは実存主義の思想にも引き継がれる)
お次にフロイト。心理学者であり、「僕たちの思考は、無意識の制限を受けている」と考えた人。我らの意識は秩序立っていてクリーンな状態に保たれてるけど、それは無意識に思考を整理して不快なことを頭から排除する機能によるもの。フロイトはそれを”抑圧”と名付けた。僕たちの思考は無意識の抑圧に左右されてるから、決して自由ではないってこと。
そんでラストにニーチェ。彼は「皆、他の人にあわせた考えしか出来ないバカだよね(悪口)」と言い広めた。コイツに現代の大衆社会を考察させたところ、現代人は皆が他人の顔色を伺って人と同じ考えしかできないバカだという結論が導かれちゃったらしい。ニーチェはそのようなバカを「臆断の虜囚」、バカの群れを「塊」と呼んだ。ニーチェは大衆が嫌いだったのだ。
あ、1番大事な人忘れてた。ソシュール。またの名を構造主義の始祖。ちなみにこの章は、教科書にも掲載されてる。
ソシュール曰く、言葉とは物の名前ではなく、差異の体系であるそう。やはり星座の例がわかりやすいので流用する。夜空には満天の星があるけど、星座というのはそれを特定の結び方で繋げることで生まれる。言葉は星座なの。星空のように連続的な世界を、特定の方法で切り取るためのツールという点において。
だから異なる言語では世界の認識の仕方が違う。異なるシステムでは使う言葉が違うイコール違う認識をしているのだとさ。
軽くまとめると、僕たちはシステムに縛られているので、思ってるより不自由な考えをしてるのだ。そのシステムには、例えば抑圧だったり、階級意識だったり、他者との関係だったり、言語だったりする。
四銃士 〜フーコー・レヴィ・ストロース・バルト・ラカン〜
んでこっから先は理解不足かもしれない。ふつうに難しかった。とりあえず大雑把に、再読したら書き足す。
フーコーの章では、歴史は今・ここ・私に向かってきているわけではない、ということが述べられてた。そう思うのはむしろそれ以外の歴史的要素を選択的に排除したからで、自己中主義はおかしいんじゃないの?という批判。フーコーは系譜学を通して、今までずっと不変だと信じられてきたものの、始まりに注目した。(後にバルトはその始まりのことを「零度」と名付けた。)『監獄の誕生』『狂気の歴史』とかのタイトルからもわかる通り。そうした始まりから知ることで、自己中から脱する事ができるのだと。例えば狂気の歴史では、昔は狂人はむしろ宗教的な意味合いを含んでいて歓迎されていたのだが、近代化の過程で狂気が科学的に分類されて”異常”のラベルが貼られることになったのだそうだ。
レヴィ・ストロースのとこはとくにおもしろかった。サルトルの実存主義との論争が特に。サルトルって人の「人は歴史の鉄の法則を学ぶことで、正しい判断をできる」という説に対して、「ふーん、そういう考えもあるのねー。だけど歴史を神の視点に据え置いて物事の善し悪しを判断するのって、宗教的な善悪の判断だったりと大差ないよね。自分は歴史知ってるから絶対正しい選択ができるってのが思い込みなんじゃないの?結局、歴史を知らない人々として見下してる未開文明の人達の主張する正義と同じ次元にいるんだよ?」と言って批判したのだそうだ。レヴィすげえー。まさかいち人類学者が、フランス思想界の絶対王者をひっくり返せるのか。見当違いな感嘆をしてしまった。
そして次。バルトは、ソシュールの予言した記号学にしっかり取り組んだ人物だ。言語による思考の規制として、①言語による外的な制限②言語ごとの印象の違い③エクリチュールという書き方(?)の3つに分類ひた。最後のエクリチュールというのは、個人が選びとれるもので、例えば学者の語り口、オヂサンの語り口・書き方、体育会系の人の語り口みたいな、話し方的なものである。そしてそれと並んで大事な概念として「作者の死」が挙げられていた。作者を神聖視して、読解において作者の意図を最も重んじる態度を否定したものだ。読書をするとき、書かれてる内容の解釈を決めるのは読者であり、作者は既に死んでいるのだと。確かに、大事なのはどう受け取るかである。内田氏の「100回読んで一通りの読み方しかできないような書物は、なんてケチんぼなんだろう」という言葉に深く納得した。確かに学校の授業でやる国語とかは答えが一意に定まることを前提としているが、いろんな読みがあってもいいじゃないか、と。
ラストがラカン。かなり難しかったため、ほぼ全て省略する。詳しくは鏡像段階や父の名で調べていただきたい(他力本願)。1つわかったのは、人は理不尽を受け入れて成長するのだということ。鏡像段階においては、幼児が、鏡に映った自分ではないものを自分として受け入れる矛盾が存在する。なんかこうした矛盾が作用してそれを受け入れることで、僕たちは大人になるのだとさ。
まとめ
話が散らばっちゃったので、最後に強引にまとめるとしよう。
構造主義が何なのか。もう一度最初に立ち返ると、「自分の本質は、自分の外側の世界の制約を受けながら後から決定されてく」という考え方だ。いろんなシステムが思考や想像力に干渉してくる。だから僕たちはあんまり自由じゃないのかもしれない。それを自覚することで、万能な判断(サルトルみたいに)とか、絶対の正義といったことの不可能性を知り、他者を尊重できる。こんなとこじゃないだろうか。
内田樹の文章は、言葉が平易でおもしろい。むしろ本編より「はじめに」の文章が心に残っている。よい入門書というのはラディカルで、何を僕たちが知らないのかを教えてくれるのだと。
この本はわかりやすいので、おすすめする。ただイマイチ構造主義が何なのかピンと来ないかもしれない。(特に最後の4人では、何がテーマかわかんなくなってくる)。ただ「無知の知」である。筆者が言うように、今はまだわかんないということがわかればいいのかもしれない。
そいじゃまた。グッド・バイ。
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フーコーは、良いですよ♩
「監獄の誕生」を読んだ時は、あぁ自分と同じような考えの人がいたんだと感動しました。
この本の内容は、狂人が自由だった時代から理性による監禁の時代へいたる歴史の話。
また読んでみようかな♩
フーコーはいろんな本で引用されるので、ある程度は知ってます。ただどうしても原典にあたる勇気がない。
単に、いろんな図書館からたくさん「負債」がある、というのも読めてない理由の一つですが。言い訳ですね、ハイ。本音でいうと、難しそうで避けてきました(苦笑)
…そろそろフーコーに挑戦してみます。