「独り言が世界を席巻する」-東京都同情塔について考える- #書評

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「あなたは犯罪者に同情できますか?」

これがキャッチコピーの本書。国語科のY先生のおすすめで読んだが、かなりおもしろかった。(……といっても、1周目は「なんかよくわかんねえ」というのが素直な感想)

東京都同情塔とは、言ってしまえば、犯罪者に優しすぎる刑務所だ。この話は、建築家の牧名沙羅が、賛否両論のさなか、同情塔を建てるお話。

いちおう、公式のあらすじを引用しようか。

ザハの国立競技場が完成し、寛容論が浸透したもう一つの日本で、新しい刑務所「シンパシータワートーキョー」が建てられることに。犯罪者に寛容になれない建築家・牧名は、仕事と信条の乖離に苦悩しながら、パワフルに未来を追求する。ゆるふわな言葉と実のない正義の関係を豊かなフロウで暴く、生成AI時代の預言の書。

幸福学者・マサキ・セト

シンパシータワートーキョー。そこは犯罪者にいっさいの刑罰を加えないユートピアである。なぜなら、犯罪とは環境要因が引き起こすものだからだ。

だから「なぜ罪を犯したのか?」と犯罪者を責めてはいけない。もしそう問うなら、逆に「なぜあなたは罪を犯さずにいられたのか?」に答えられなければならない。

この本のマサキ・セトという幸福学者が唱えることを要約すると、「加害者は、もともと被害者であったケースが圧倒的に多い。幼少期から、善行▶報酬▶善行…という善のループが作用しなかったために、喪うべき幸福が存在しなかった被害者だ。だから、犯罪者はもはや社会から侮蔑され排除されるべき人間では無い。哀れな、同情されるべき、ホモ・ミゼラビリスなのだ」と。

そしてマサキセトは提唱する。新宿に、シンパシータワートーキョーを、寛容さの旗印として建てるべきだ。これが同情塔のコンセプトである。

だけど、この本が犯罪とか同情を核とした社会派小説かと言われると、そうじゃない。むしろテーマは「言葉」だ。建築と言葉。新しいバベルの塔。

バベルの塔と独り言。

バベルの塔の再現。シンパシータワートーキョーの建設は、やがて我々の言葉を乱し、世界をバラバラにする。ただしこの混乱は、建築技術の進歩によって傲慢になった人間が天に近づこうとして神の怒りに触れたせいじゃない。各々の勝手な感性で言葉を濫用し、捏造し、拡大し、排除した、その当然の帰結として、互いの言っていることがわからなくなる。喋った先から言葉はすべて、他人には理解不能な独り言になる。独り言が世界を席巻する。大独り言時代の到来。

一番最初の段落で、一番、印象の強かった文章の引用。
バベルの塔はもちろん、ご存知だろう。シンパシータワートーキョーは、言語をバラバラにしてしまうと牧名は言う。

なぜ?

「シンパシータワートーキョー」は、日本人が日本語を捨てようとして生まれたネーミングだからだ。

ところでこの文章、建築の問題が言語の問題にすり替わっていることに気づいただろうか?これはつまり、建築というよりかは、シンパシータワートーキョーの「背後」が問題にされているということ。

だからここでは、シンパシータワートーキョーの思想と名前を考えてみる。

シンパシータワーの思想は、ズバリ、寛容論。たぶんマサキセトの話で気持ち悪いと感じた人もいたんじゃないか?偽善。最近は寛容論がだいぶ浸透してきてる。「マイノリティに、LGBTQ+に、移民に優しくしろ」とさんざん刷り込まれていて正直うんざり。終いに、「犯罪者には同情を」なんて言われたら、そこで論争(というよりは妥協できないという意味で、摩擦)が起きるのは必然だ。それが「シンパシータワートーキョーが人々をばらばらにする」の1つ目の意味。

つまり、寛容論のシンボルとしての建築が、人々を分裂させるってコト。

次に名前に関して。

名前に関しては少しおもしろい話がある。この物語前半、ずっと「シンパシータワートーキョー」を拒否しつづけてきた牧名が、「東京都同情塔」という名付けを気に入り、設計を決意するシーンがある。なぜそんなに名前にこだわるのか?

本人曰く、「シンパシータワートーキョーは、日本人が日本語を捨てようとしている」「恐ろしくダサい名前」だからだ。日本人が日本語を捨てようとしている。思い当たることも多いだろう。たとえば、ソーシャルインクルージョン、マイノリティ、ジェンダーレス等々、あえて訳さない外来語が多く普及している。別に社会的包摂、少数者、全性別だっていいはずだ。

なぜわざわざ日本語を捨てるか?
意味をあやふやにできるから、だと私は思う。日本語はあまりに身近すぎて、造語でさえも意図せざるイメージを帯びちゃう。手垢がついてしまう。逆に外来語は、完全にあたらしい、ニュートラルな語として存在できる。だから逆に、人々はその言葉から自由にイメージをくみ出すことができるし、「人それぞれ」で、「なんとなく」場の空気を収めるために使える。それはつまり、言論の、コミュニケーションの放棄に他ならないんじゃないか?日本語の放棄=大独り言時代の到来、では無いのか?

「シンパシータワートーキョー」が言語を乱すのは、寛容論の衝突と、日本語との不和という2つのレベルにおいて行われる。塔の建築そのものが、景観の「偉大な破壊」であるように、塔が今ある秩序の破壊者である、というのは明らかだ。

カタカナ

これは牧名沙羅のカタカナ嫌いとも通じている気がする。

「カタカナは無機質で、見かけはいいが、その実なかみの無い構築物」であるらしい。実の無いカタカナに宿る、実の無い正義。あらゆる立場に中立であろうとして、最小限の意味しか持たないような言葉たちと、手前勝手な解釈で、己の武器とし、盾とする人たち。

独り言、すれちがい、ディスコミュニケーション、真理の不在、の時代。

その文脈で行くと、とりわけマサキ・セトの死が強く印象に残った。ーーー「きれいな葉っぱが見える」「そんな木は現に無いだろう」、狂人と言い争った末に、マサキセトが狂人の想像によって殺されたことは、事実がもはや「人それぞれ」で、どんなに寛容論を唱えるマサキセトでさえも、もはやコミュニケーションは不可能だったんじゃないか?

(マサキ・セトが、カタカナ表記なのも関係ある?)

牧名沙羅VSサラ・マキナ

で結局、牧名にとってな葛藤とはなんだったのか?

内と外、
無意識と意識、
不寛容と寛容、の対立だと私は考えている。

まずは牧名沙羅の外側から。「そのことについて当事者じゃない私が、口をはさむ権利はないし、また挟むべきでもない」。彼女の口癖のようないいまわしは、そのスタンスをよく表していると思う。一度音になった言葉は、独り歩きしてしまい、災いを招く。人と話すときの彼女は、脳内で検閲者が働いていて、異様なまでにクリーンであろうとしているように見える。公の彼女は、建築家のマキナ・サラである。

だけど、彼女の内側では、それに反する言葉が渦巻いている。不寛容が彼女の内側なのだ。だけど「私は意見する立場にない」と言うことでそれを封じている。彼女はなかば強迫観念のように、言葉に誠実であろうとし、断定と義務と否定の強い言葉を使いこなす。(イドとスーパーエゴみたい)

「私も君みたいに、ふわふわ、ふわふわ、雲が逃げていくみたいに喋ってみたい、喋れるものならね。どこで日本語を覚えたの?」

堅固な建築のような言葉遣いは、彼女が職業病として身に着けたものかもしれない。

ことばと建築

言葉と現実がイコールで結ばれるまで、シンパシータワートーキョーのことを、私は考え続けなくてはいけないのだ。

私がこのストーリー全体から感じた牧名沙良の思考パターン。「現実と言葉は一致すべきだ」

彼女にとって、塔のネーミングが一大事であったように、この強迫観念めいた信条は随所で見られる(たとえば「頭に疑問符がいっぱいの人が建てた巨大建築は、いずれこわれてしまうだろう」など。挙げればキリが無いので、ご自身で探してほしい。)

そして彼女は建築家になった理由を「支配欲が強いから」と説明する。彼女の欲は、建築を通して現実を支配することに向かってる。建築=現実を支配するなら、言葉を支配しなければ。これが、内と外をカッチリと断定的に切り分ける言葉遣いをしなければならないという、強迫観念を植えたんじゃないか?

どんな言葉や理屈にも屈しないだけの、動かしがたい建築をしなければならない。そうじゃないと、人々はもっとバラバラになってしまう。建築家の彼女にとって言葉が牢獄なのは必然かもしれない。

曖昧な方へ

ソシュールによれば、言語の役割は分節化であった。つまりカテゴライズである。フランス人が「papillon」と言って一緒くたにしてしまうところのものを、日本人が「蝶」「蛾」と区別するように(どちらも同じチョウ目である)、言語によって概念の連続する世界に区切りが同時に生まれる。私たちは、言葉とものをそうやってグループ分けすることで、いろんな概念を統一的に扱い、認識や処理を軽くできる。

と、まあすこし難しい話をしてしまったが、これが物語に絡んでくる。というのも、話が進むにつれ、キャラクターが言葉から言葉以前にさかのぼろうとしていくからだ。

さっきから書いたように、もともと彼女は内と外を完ぺきに使い分け、建築のような堅固な論理を組み立てていた。だけど実際に建設された後は、少し様子が違ったように思われる。内と外を切り分ける彼女が、塔を内部も外部もない建築にしたのはなぜか?建築によって内と外を切り分けることが、すでに言語の分節化のようではある。マックスクラインの体臭に対して軽い文句を言うシーンも、物語前半だったらそんなことは言って無かったんじゃないかと思う。脳内の検閲が少し弱まって、無意識と意識の対立が統合されたように感じられた。

「私も君みたいに、ふわふわ、ふわふわ、雲が逃げていくみたいに喋ってみたい、喋れるものならね。」

きっと彼女は、あたまのなかの「言葉の牢獄」に本当は疲れていたのかもしれない。言葉に責任を持つ。きっちりと壁をつくることによって、ごちゃごちゃしたものごとを秩序立てる。意識のレベルではそれを行いながら、無意識のレベルでは、言語の分節化を免れる、言語以前の、すべての概念が区切りかべを持たず、原初のスープに溶けあっていた幼児の世界への「退行」を、曖昧さを求めていたんじゃないのか?

本文中にでてくるもう一人の人物、拓斗にも似たような傾向がみられる

拓斗について

執筆につかれたからこっちはさらっと流してしまいたい。

曖昧なものはなんであれ快かった。何によっても定義されない時間の中にだけ人生があればよいのにとさえ思う。

じつはこの引用文の前後にも文章が続いていて、拓斗は、「結果とか、結論とか、何年とか何歳とかの具体的な数字とか、老いとかの無い、永遠に「今」だけがあればいいのに」と望んでいる。つまり彼は、瞬間瞬間を区別したり、曖昧さを排除しようとする分節化の作用=言葉を、拒んでいる。正確に言うと、拒むというより、言語以前の世界を夢見ているように思われる。そしてそれは強い断定の言葉を使って、つぎつぎに「壁」を建てていく牧名沙良とは対照的だ。

だけど、この二人が一緒にいたのは、本質的に同じだったからとも考えられるんじゃないか?

つねに肌や清潔さに気を遣い「他人との距離感を間違えていると思われたくない」彼は、発言を間違えてはいけないと思うマキナ・サラと、すごく、似ている。でも一方、潜在意識に近い、感覚のレベルにおいてどちらも言語以前を望んでいる。

そんな彼が東京都同情塔に住みたいと思うのは自然なのかもしれない。(管理人としてだけど)。

あれは本当に何だったのだろう。塔の外にいた頃の記憶は夢と区別がつかないほどに曖昧になって、曖昧なのは単に記憶力のせいだけではなくて、どちらが外部でどちらが内部か、どちらが過去で未来なのか、かつてどんな言葉を使っていたのかも、忘れようとしているみたいだ。

そしてときどきでてくる彼の母。彼女は同情塔に住人として住んでいる。
「行かないで、お母さん。法律は、守らないといけないんだよ。犯罪者になったら、一緒に暮らせなくなっちゃうよ。ルールがある世界に生きている以上は、ルールは守るべきなんだよ。」
その母が、彼の生き方に蔭を落としていたことはまず間違いない。

そんな彼の、物語最後らへんの会話を紹介しておく。

「いいよ、七時半」
「ねえ、お母さんは元気なの?」
「元気かどうかは知らないけれど、今頃は等のどこかでぐっすり眠ってるんじゃないかな」
「よかった。じゃあ、明日ね」
「明日ね。朝の、七時半」

母の存在をあまり意識しなくなって、以前拒んでいた、時間の分節化「七時半」を自然と受け入れている。これも成長なのかもしれない。(もちろん彼は以前から言葉を使ってふつうに暮らしていたわけだから、この解釈が牽強付会なのはわかってる。ただの、おもいつき)。

言葉と問い

牧名沙羅にとっての、建築とは?

人間は、建築であるらしい。いわく「自立走行式の塔」と。そして建築は答えであると同時に、新しい問いである。(ザハハディドの建てた国立競技場へのアンサーとして同情塔が建ったように、同情塔は答えとなるような新しい建築を探している)。人間は建築である。建築は、問いと答えである。ならば、人間は、問いと答えである。

疑問符は途切れることなく私の内部を浸し続けて柱と梁を濡らすから、応答を考えなくてはいけなかった。考え続けなくてはいけないのだ。いつまで?実際にこの体が支えきれなくなるまでだ。すべての言葉を詰め込んだ頭を地面に打ちつけ、天と地が逆さになるのを見るまでだ。

塔が倒壊するまで、というより、人は死ぬまで、考え続けなくてはいけない。それが彼女にとっての結論。

東京都同情塔の最上階に図書館があるのも、牧名沙羅の意図したことなんだろう。同情塔を人に見立てるなら、最上階は頭、脳がつまっている。天上の人類が言葉を忘れないように、ずっと問い続けられるように。

終盤の彼女は、言葉による完全な理解を諦めている。理解も誤解も大差ないんだと。『「手を洗って」と言って手を洗ってくれればそれで私としては不満はないの』というように、言った言葉の意味さえ通じればそれでいい、最小限の意味しかもたない言葉で、それでも言語がばらばらにならない方法は、それしかないのだと彼女は悟ったのだろう。塔(言語)が倒れるか、永遠に建ち続けるかの二択しか頭になかった彼女に湧いてきた第三の未来。それが考え続けることだった。

この小説の終わりは、まるで黙示録のように、唐突で突飛だ。

だれかが私の像を作り、私はここに永遠に建ち続ける。それを見て人々が、それぞれの独り言を投げつける。各々がふさわしい形容を与えたがるが、もちろん私には何を言っているかわからない。ただ、指先だけが等しい言葉を伝える。「見よ、彼女だEcce homo」。

最後の1ページの一部分を端折って適当にまとめてしまった。だけど、なんとなく、最初のページの答えになっていることに気づけるだろうか?

ーーー大独り言時代の到来。他人には理解不能な独り言が飛び交うが、それでも意味を伝えること、コミュニケーションはとまらない。
Ecce homo(この人を見よ)。キリストが群衆に嘲笑され、殺されることによって、逆に絶対かつ永遠になったように、塔は独り言を受け入れながらも絶対者として君臨する。その絶対者を前に人々はやはり、問いを積み続けるしかないのだろう。

まとめ

実はこの記事を書き始めたのが2か月前。もろもろのことと並行して書いてたらこんな時間かかっちゃった。非常に、疲れた。まだまだ読みが浅いだろうに、「書評」?「考察」?、図々しいことなんとやら。小説にちゃんと取り組もうと思うとすごく難しい。だからこの記事も何度もリライトして、まだ完全には納得していないけど、でも一応の結論を出さなければそれこそ永遠に書き続けてそうで、とりあえず記事にした。

どうだったろうか?掴みがたい、ちょっと難しかったかもしれない。

最後に、今思いついたことも書き留めておく。牧名沙羅は、言語と現実が一致できていなかった。つまり素朴に自分の存在を信じることができなかったんじゃないか?

塔が牧名沙羅を呼ぶ声がする。彼の方では既に、彼女の名前を知っているのだ。

「〜という人が現にここにいるとして」という言い回しも同じ。自己存在を疑い、疑い、疑いはすれども、デカルトのように「我ありcogito ergo sum」とは言えなかった人。

マルクスが「人は労働の成果を通じて、自分が何者かを事後的に知る」と述べたように、牧名沙羅は同情塔の建築を通して、自分がどんな存在なのかを知ったのかもしれない。

さて、ここまで、頭に浮かんだありとあらゆる解釈を書き連ねてきた。まだまだ足りてない、というのが率直な感想。検証もうまくできてない。丸投げ、申し訳ないが、あとの疑問は自分で考え続けてほしい。

コメント 感想をください!

  1. ブログなかなか行けなくてすみません!
    ミニトマです!

    「あなたは犯罪者に同情できますか?」  この本のキャッチコピー面白いですね!読んでみようかな☺️

    あと、なんとなく、コレはキリスト教についても触れてみたら本書はもっと面白く感じるんじゃないか?と思いました!

    • ほんなさん、お久しぶりです!(というか投稿自体がそもそも久しぶり)

      たしかにこの本読んでて、キリスト教っぽいな〜ってのは随所で感じてたんですが、いかんせんあまり知らないもので。ただこの本を書いた九段理江さんのインタビューとか見てると、作風に聖書が影響してるんじゃないか、って話があったりして。

      一回、キリスト教についてもちゃんと学んどかないとなぁ

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