僕が「あえて」読書をする理由。

考察
考察
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教室で本を読んでいると、「変わっているね」とよく言われる。そうか、僕は変わっているのか。ついでに「なんでそんな本を読んでるの?」と問われる。

なぜか?と問われるとむずかしい。一言で言うなら、習慣だから。これまで深く考えてこなかった読書の効用について、今回は書く。

なぜ「あえて」本を読むのか。本でなければならないのか。僕の答えは、5つある。

修行だから。

読書をしていると、たまに難しすぎる本に出合う。闘えないどころか、攻略のとっかかりさえつかめない。たいてい、イライラしてすぐに投げ出してしまう。ポイっ。

当然だ。だって相手は知の巨匠なんだから。それを一発で理解できると思う方がどうかしてるぜ。

簡単な読書と言うものはない、らしい。それは一つのテクストを浅い範囲で読み取っているだけ。そしていわゆる「難しい読書」、むしろ知の巨人に挑んではねかえされる経験こそがじつは大事なのだ。

僕の経験を話そう。「構造と力」という本を以前買った。ちょっと背伸びをしたつもりだったが、どうやら背伸びをしすぎたらしい。はじめからおわりまで「??????」状態。アルチュセール?ピュシス?exces?象徴秩序?
僕は短気な方だから、それで諦めて放置。ポイッ。
で、この前1年ぶりくらいに読み返してみた。そしたら、わかる。わかる。なるほど、こういうことを言いたかったんだなって。その後2章でつまづくんだけどね。

それ以来、むしろわからない本を読むことが少し楽しみでもある。わからない読書というのは、考える読書だ。その分、わかったときが、気持ちいい。急ぐな。「わからない」をわかろうとして問いを発することが、僕の思考の輪郭というものを浮かび上がらせてくれる。

「いや、そんな読書は非効率だ。要約でもなんでもいい。すぐに答えを知ることの方が大事だろ。」

そんな批判を感じる。僕もそう思ってたし、それどころか、今でもときどきそう思う。でも、違うんだよ。

質問すればなんでも答えが出てくると思っているところがAIネイティブの嫌いなところ。私はAIじゃない。まず自分で推測したり、解釈したりする癖をつけたらいいよ。私は君のことが好き。ひとりの人間として非常に好ましい。そんな君に期待しているからこそ言っておきたいのだけれど、途中式が書かれていない解答に私は丸をつけない。つける人もいるのは知ってる。でも私はつけない、絶対に。偶然かもしれない、再現性のない成功を許すわけにはいかないから。

『東京都同情塔』

実際問題、答えはすぐにでてこない。「検索すればいいじゃん」という人の間違いが何かわかる?そういう人達は、検索ができることを前提としている。だけど、いつでも、どこでも検索はできない。単に、ネット環境がない場合の話をしているわけじゃない。間違いは、3つ。

1つめ。そもそも検索をするには、検索をする意思がなければならない。2つ目。検索をするには、言葉がないといけない。言葉にできないならば、助けは求められない。3つ目。答えがそもそもあるという前提が違う。唯一の解が無い問題もある。何をえらんでも自由だが、選んだのならば、説明責任が伴う。

つまり、答えさえ知ればいいという態度は、合理的ではない。

『武器になる哲学』という本に、哲学の価値は「What」か「How」の2通りしかないと書かれていた。哲学の価値は、その哲学の成果(What)か、あるいは、その哲学の歩んだ道(How)のどちらか。そして実際に役立つのは「How」の場合がほとんどだ。昔の哲学の成果は、すでに新しいものに置き換えられてしまって、直接に役立てることは難しい。だけど、その態度、犯した過ちから学ぶことは多くある。

読書も同じである。読書の真価は正しい問いをたてること。つまり、How。終点ではなく始発駅にたどり着くこと。正しい駅に行ければ、そのあとはレールに沿って進むだけ。間違えても、途中からやり直せる。

読書とは、先人が築きあげてきた知のレールに乗っかること。終着点ではない。歩き方を知ることだ。

そんなわけで、読書においては、「わからない」経験が大事なのだ。
いつかわかる日を、ゆめみて。

遅すぎるから。

ユーチューブも、テレビも、ネットも。知識を得るには、全部遅すぎるのだ。

「いや、動画の方が伝えられる情報量が多いんだから何言ってんの?」と思われるかもしれない。でもそうじゃない。
まずテレビにもユーチューブにも広告がある。ひじょうに邪魔くさい。人生の時間を1秒たりとも費やしてやるものか。そしてそれらのメディアは見せ方をとても重視する。テレビやユーチューブは視聴率を、我々ブロガーはPV数を重視する。「どうやったら多くの人を引き付けられるか?」そんな悪知恵ばっかりが詰まっていて、非常に空虚だ。

「答えはCMのあとで」? せっかくの時間がもったいないじゃないか。

そしてこれは本質的なところだが、動画メディアは、相手にゆだねる必要がある。相手の話す速度にあわせて、動画の経過時間にあわせた速度でしか進んでいかない。文字は違う。自分が望めば、早く読めるし、重要なところはなんども繰り返し、ゆっくりと読めばいい。どうでもいいものは流し読みだ。

でも、これはもちろん動画メディアを馬鹿にしているわけじゃない。ただ、タイプが違う、と申し上げているまでだ。かくいう私も、毎日キッチリ1時間はユーチューブを観ている。

具体的にいうと、動画は、頭で理解するのにちょうどいい。僕は最近、会員制の授業動画を見て、勉強を進めている。これが、初めてのことがらを理解するのにちょうどいいんだなあ。「なぜ動画が勉強に適しているのか」に対する僕の答えは、「受動的でいられるから」だ。

結局さっき言ったように、動画という形式は相手にゆだねることが本質だ。自分で教科書を読んで化学の未知の分野を学ぼうと思ったら、けっこう大変だ。でも動画形式で講義してくれたら、それを聴くだけでいい。わかった気になる。理解のとっかかりを得られる。
(勝手に流すだけでいいのだから、ユーチューブはやめられない)

逆に、読書と言うのは、すごく労力のいる作業だ。大事なところはなんども繰り返しゆっくり読んで、どうでもいいところはすっ飛ばす。読み方にムラがある。そういう主体性が求められていて、再生ボタンを押すだけでは話が進まない。

でもその分、体で、汗で理解することができる。より深く、深く。ついでに少し現実的な話をすると、本とネットではコンセプトが違う。本は、一人の著者が一つのテーマについて書くことが多い。著述に対して著者が全責任を負う。構成が体系としてよく練られていて、一冊で完結できる。それに対してネットの世界は、皆が知恵を出し合ってどんどん知識を修正していく。(Xで言うところのコミュニティノートみたいな)。だから責任を負う人間はいないが、情報量で情報の質をカバーしている。その分、一人一人の情報をつぎはぎして学ばないといけないし、全体を把握するのにはあんまり向いていない。

③<私>でいられるから。

<私>の主体性。さっきの章でも書いたが、読書は非常に労力を要する。そして画面の先でガイドしてくれる人がいないのだから、自分で考えなくちゃいけない。

それはもちろん大変なのだが、そのことに価値がある。
なぜなら、読書こそが私が<私>でいるために必要なのだから。

どういうことか?現代の状況と関係する。今の社会は接続過剰である。つまり、余計な情報が多すぎてあふれてしまっている。スマホやパソコンやテレビを通じて、つねに情報と繋がってしまっている。だから、ほんとうに大事な情報と、いらない情報の区別がつきづらい。キャッシュが溜まってしまう。

「こんなお店がいい」とか「こんな商品が発売された」とか「こんなファッションがトレンドだ」とかいう記号の氾濫。それが情報社会。ボードリヤールの言うところの記号消費がそれにあたる。消費の対象がモノではなく情報であるために、その欲求には際限がない。それが新時代の資本主義の活路でもあったわけだが、そうした記号消費の結果、僕たちはいつもなにかの記号を手にしたいと思う一方で、「ほんとうは<私>は何がほしいのか?」がわからなくなっている。

そのようなときに、なにが必要か。ひとりぼっちで問いと向き合うこと、だと僕は思う。

自分の外側ばかりを見すぎて、世界に埋もれてしまっているのが現代人なら。自分の内側へと視線を向けて、じぶんのカタチというものをはっきりさせなければならない。そうでないと、情報社会にすぐに飲まれてしまう。

そして自分の輪郭を維持しつづけるのに最適なのが、読書だというわけだ。読書の神髄は問いを発すること。自分で「なぜ?」を考えて、答えようとする。他者は鏡、とよく言われるが、他者との差異が<私>の輪郭を決める。今までまったく考えてこなかった異質な問いに出会い、答えようとすることで、自分の思考を辿ることができる。すなわち、<私>を知る。

情報にのまれているうちは、「なんとなく」周りに合わせておきたい、という思いが強いかもしれない。現代人の疎外は、孤独だ。だけど読書をして、自分を知れば、もはやひとりは怖くなくなるのかもしれない。大事なものと要らないものが、図と地にわかれはじめる。視界がクリアーになる。(それが読書家に頑固な人が多い理由かもしれない。僕はかなり頑固な方だと思う。もし確かめたいなら、頭を叩けばよい。きっと甲高い音が鳴るはずだ。)

考え方を整理して、過剰な情報を押し返す。キャッシュの削減。そのために読書が役に立つ。

楽しいから。

たのしい!楽しい!愉しい!
究極を言えば、これに尽きる。おもしろくなかったら、やってられんわ!
おもしろさには、二つある。知的なおもしろさと、感情が動くおもしろさと。interesting/funny。

で、僕が思うに、本を読まない人がひっかかってるのは、どの本がおもしろいかを知らないからじゃないだろうか。おもしろさが保証されていない、どれを読んでいいかわからないから、何も読まない。そんな人が多い気がする。

ならば、どんな本を読むべきか。難しいテーマだ。

結局、本が好きな人に聞くのがいいんじゃないだろうか。周囲に本好きがいるのなら、その人に聞いてみる。いないのなら、ネットでおすすめの本、定評のある本を調べてみる。僕に聞いてもいいぞ。大歓迎☆

これが偏食家タイプの読書。好きなところをひたすら掘るタイプ。それとは逆に健康志向の読書というものもある。

バランスよく栄養を取りたい人には、必読リスト、というのをおすすめする。僕は『百冊で耕す』という本の巻末リストを使っている。新しい冒険をしたいのなら、そのガイドとして有用だと思う。僕はバランス重視なので、評論:文学:現代小説を2:1:1くらいで並行して読んでいる。

並行読書はけっこうおすすめだ。ひとつに飽きたら、もう一冊開いて、それに飽きたら別のを読む。そうこうしていると途中で投げ出さずに読み切れることが多い。達成感。

哲学とか、学問系の文章を読んでいてい楽しい瞬間がある。それは、つながる快感だ。一度読んだことのある本が引用されているとき、知っている仮説がでてきたとき、伏線が回収されたとき。「それ知ってる!!」って言うのは、誰だってたのしいでしょ?

他人と感想を共有するのも楽しい。僕にも読書好きの友達というのがいて、感想を共有することがある。読書というのは孤独な作業だが、みんなのものでもある。いろんな人のいろんな解釈を聴くのもまた興味深い。視点が変わる。見え方が変わる。生き方だって変わる。

⑤かっこいいから。

読書って、かっこいいじゃん!!!

白状すると僕、がっつり本を読むようになったのは高校に入ってからなんですけど、入学してすぐのときは割とぼっちだった。ひとりの時間が必然的に増えて、その時間で本を読み始めたのがきっかけ。本を読んでいれば、恰好がつく。

僕の感性から言わせてもらうと、周囲と同化してスマホを触り続けるのってダサい。他人にのまれちゃっているようで。だから差異化したかった。差異化。平たく言えばキャラ付けですね。その結果、今の僕が誕生したってわけだ。

最近読んだ本で、「読書は実用のファッション」という言葉があった。なるほど、確かにそうかもしれない。読書は、ファッションでもある。僕だって本ばかり読んではいるが、他人の目を全く気にしていないわけではないのだ。一方で、読書はタンスの肥やしにするだけのファッションとは違う。機能的に洗練されて、実生活に生きる。

極論を言うと、読書とは逆張りだ。皆がスマホを見ているから、自分だけは本を読む。不良の精神。写真を撮るのに、スマホじゃなくて、あえて一眼レフで撮るのと同じような心構え。でも僕は、その「あえて」が美しいと思っているし、誇りを賭けている。

古来から、文章を書いてきた人というのはそうだったんじゃないかとさえ思われる。日本だって1世紀前には、小説家なんて「羽織やくざ」と呼ばれていたくらいだ。世間になにかを問いかけたいから文章を書く、その裏には、孤高ともとれるような頑固さ、ツッパリ根性があったのではないか。だから文豪には変なヤツが多いんじゃないかと、僕は個人的に思ってる。

さすがに牽強付会が過ぎたようだ。最後は、最近気に入っている言葉で締めたいと思う。僕のこころに刺さった言葉だ。

孤独を恐れず、孤高を求めず。

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  1. ほんな兼ミニトマトそーぷ より:

    私が読書をするのは「自己を見つめる為」です。
    それは、映画、漫画でも然りです

    このブログでまた話したいです!
    今後ともよろしくお願いします

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