今回はヨルシカ様の新曲・ルバートを考察します!
ジャズ風の音楽で軽快なようでいて、その裏に忘れていくことへの悲しみがある。
結論から言うと、僕はこの曲のテーマは「変身」だと思っています。では早速。
1番 レコード
あ、ちょっと楽しい 花が咲く手前みたい あ、ちょっと苦しい 水を忘れた魚みたい
ルバート刻んでる 私の鼓動マーチみたい メロがポップじゃないから 少しダサいけど
私忘れようとしているわ 悲しい歌を愛しているの 飽きるくらいに回していたの そのレコード 飽きのないものを ずっと探していたわ お日様とのダカーポくらい 楽しい
「飽きるくらいに回したレコード」は、自分にとって大切だったものだ。しかしそれにも退屈してきて、今は「飽きのないもの」=新しいレコードを探している。その過程を「花」が咲くのを待っている、と例えたのだろう。
じゃあレコードとは何なのか?あえて結論から言おう、「私の価値観のシンボル」だ。楽しい歌も悲しい歌も、レコードは自分で選び取って購入するものだ。その点で私の好き嫌いを反映するレコードは、私の価値観を表すと言えなくもない。個人的には、この解釈が1番納得がいく。この曲のテーマは、古い自分を忘れて新しい自分へと移り変わっていってしまうことの楽しさ悲しさ、なのだろう。
すると、飽きるくらいに回したレコード=忘れようとしている悲しい歌=過去の自分の価値観、となる。花が咲く手前=新しいレコード探し=新しい自分を手に入れること。水を忘れた魚=大事なものを失った私=過去の自分を否定した今の私のありかた、となる。
新しい自分探しは、ちょっと楽しい。自分がなりたいものに変身できることの楽しみである。と、同時にちょっと苦しいのは、魚にとっての水のように大事なもの、を私が無くしていることに気づいているからだ。忘れていく「飽きるくらいに回した」レコード。
ではなぜ、”新しい自分・飽きのこないもの”を探しているのか。それは①今の「レコード」がすでに退屈で、②ポップじゃないからだ。ポップミュージック→ポピュラリティ、つまり大衆ウケのよさ。自分の持っている「レコード」は、ポップじゃない。風変わりで、皆から好かれないもの。だから「大切だったもの」だけど、それを忘れようとしているのだろう。
2番 月と犬
あ、ちょっと悲しい 月を見かけた野犬みたい あっと驚くほどに丸い 少し齧ったら駄目かい
誰もが笑ってる そんなにこれはポップかい? 違う、お前のずれたセンスを馬鹿にしてんのさ
私忘れようとしているわ 楽しい歌も愛しているの お葬式の遺影にしましょう このレコード 当てのない旅をずっと続けていたわ 神様とのヴィヴァーチェくらい 楽しい!
“ちょっと悲しい、月を見かけた野犬みたい”▶「月に吠える」みたい。
月は、何のシンボルか?
あっと驚くほどに丸い月。「望月の 欠けたることも なしと思えば」。私がかじりたいと欲する月は、満ちた心ではないだろうか。ただし月には、地上とは絶対的に隔離された存在という含意もある。満足が絶対に手に入らないのは、「飽きのないもの」をずっと見つけられないでいるからだ。
ズレたセンス=ポップじゃない。だからみんなに笑われてる。 そしてこれが変身の原動力なのではないだろうか。周囲の圧力で私は常に周りに合うように自分を変えさせられているのかもしれない(再考の余地あり)。
サビ。1番と位置がおなじものは明らかに繋がっている。
悲しい歌▶楽しい歌、飽きるくらいに回していた▶お葬式の遺影にしましょう、飽きのないものをずっと探していたわ▶あてのない旅をずっと続けていたわ
だいたいお察しの通り。悲しい歌▶楽しい歌は、そのままに私の価値観の変遷を表している。飽きるくらいに回したレコード、大事なものをも葬ってしまう。それはズレたセンスを「ポップじゃない」と笑われたからだろう。そのような古さを捨てて新しさを手に入れようとすること、飽きのないもの探すこと。=新しい「レコード」探しは、無目的な終わらない旅なのだ。
2.5番 止める
あなたも笑ってる?
あ、メロがポップじゃないから 少し止めるけど
私忘れようとしているわ 馬鹿なりにでも愛していたの 踊るみたいに踊っていたの!
メロがポップじゃないからとレコードを止めてしまう。
1番▶メロがポップじゃないから少しダサい、2番▶そんなにこれはポップかい? 違う、お前のズレたセンスをバカにしてんのさ、ココ▶メロがポップじゃないから少し止めるけど
わかるだろうか?メロがポップじゃないからと、レコードをどんどん嫌いになっていっていることが。私のセンスが駄目なのだと意識させられているのだ。誰もが笑ってる?▶あなたも笑ってる?、と。
バカなりにでも愛していた▶ズレたセンスを馬鹿にしてんのさ、との呼応関係。自分のセンスは確かに人とズレてはいるが、私は本当は「そのレコード」を愛していたのだろう。
自分の価値観を皆に否定され、その結果自分の過去を葬って忘れていってしまう、本当は愛していたのに。
踊るみたいに踊る…?自分が何をしているのかも知らぬまま、ひたすら盲目的に周囲に合わせて踊っているということ。自分の行いに確証がもてないから、「踊るみたい」である。踊る、というよりは踊らされているということだ。
3番
飽きのないものを ずっと探していたわ
お日様とのダカーポくらい 楽しい!
私忘れようとしているわ 一つ残らず愛していたのに いつの間にか忘れていくの あのレコード
飽きのないものを ずっと探していたわ お日様とのダカーポくらい 楽しい
さて、ラスト。だいたい全部書き尽くしたので、今までの繰り返しのようになってしまう。
一つ残らず愛していた▶「レコード」は1つじゃなかったのだ。過去に何度も何度も、(それこそダカーポのように)飽きては変えてを繰り返していたのだろう。本当はどれも愛していたのだけれども。でも今もその「飽きのないもの探し」をずっと続けている…
飽きのないものを探すのはなぜか。今までの話を総合すると、現状に満足していないからだ。自分のセンスをバカにされて、自分自身に自信が持てなくなったから。だから新しい「レコード」に替えて、環境への適応を図っているのだろう。また既にパッケージ化された「レコード」を選び取らされている、
そしてもっと本質的な話、飽きのないものを探すのは、新しいレコード探しが楽しいからに他ならない。もっと正確に言おう。「楽しい」は嘘だ。楽しい楽しい楽しい楽しいと繰り返すのは、自己暗示だ。ポップ=マジョリティへの適応=ズレたセンスの矯正=新しい自分探しを楽しいこととして。
(楽しいが自己暗示であることを示す証拠としては、歌詞の字幕が挙げられる。spotifyやyoutubeの歌詞を見ると、1番2番では”楽しい!”となっているが3番では”楽しい”になっている。これは楽しいが本当は欺瞞に過ぎないことを私が感覚的に知っているということを表している)
私は、おそらく自分を騙していることに気づいていない。本当に楽しいのだと思い込んでいる。一方で、月を見かけた野犬や、水を忘れた魚、と自分を例えている。悲しさ・苦しさは感じている。過去を忘れたくないとも思っているのだ。だから、悲しい。
皆の意思=ポップ=新しいレコード探しの楽しさ=お葬式の遺影 vs 私のセンス=バカ=昔のレコードを忘れていくことの悲しさ=本当は愛していたレコード
その二律背反を抱え込んだ存在として私が描かれている。
ルバートの意味
ルバート、自由な速さで。イタリア語のrubare「盗む」の受動態、rubato「盗まれた」。
この曲でルバートと言っているところは実は1箇所しかない。一番の
ルバート刻んでる 私の鼓動マーチみたい
メロがポップじゃないから 少しダサいけど
のところ。ここからタイトルのルバートの意味を推測する。私の鼓動=ルバート=自由なリズム。音楽の3要素はメロディ・リズム・ハーモニーらしい(音楽あんま詳しくないけど許して>_<)。じゃあポップじゃないメロディ(主旋律)は、鼓動の持ち主=私自身を指すのではないだろうか。
私の鼓動は、自由なルバート。対する私は、一体どうか?
むしろルバートは「自由」というより「盗まれた」の方が意味的に近いかもしれない。
私の鼓動も私自身の価値観もすでに、盗まれてしまったものだ。誰に?皆に。私が大事にしていたものも皆に否定されたことで盗まれた(なくなった)。忘れていく「あのレコード」。今の私は、借り物のように空っぽなのだ。すでに大事なものを盗まれてしまっているから、私は手ぶらで自由に見える。そういうことなのかもしれない。(ルバートの意味に関してはまだまだ自由に考える余地がある。何か思いついたらアイディアをください!)
しかし毎回パッケージ化された価値観を選んではいるが、周りを見ているだけなのでコレジャナイ感がつきまとってしまう。もしくはずっとある価値観でいることに飽きる。だから新しいレコードを探しつづける「あてのない旅」は続く。
結論
レコードは私の価値観、ひいては私自身である。でも私は私自身に満足がいっていない。(←ダサい私の鼓動)。皆からズレたセンスを笑われないためにも、新しいレコードによって私の価値観を周囲に合わせている。しかしその新しい私にも飽きてくる。だからレコードを替えてまた新しく変身するのだ。
自分自身を愛すそばから、変えて、忘れる。どんな自分でも完璧にはなれない以上、満月のような満足は絶対に手に入れることがない。そうして最後には、なんのために自分がそんなことをしていたのかすらも忘れる。ポップに合わせて、踊るみたいに踊っていたら、「楽しい!」以外の目的を失ってしまった。他方では、自分を失っていくことの悲しさ・苦しさに気づきながらも。私は、新しさ=ファッションを追求を受け入れることで、これからも「レコード」の交換をずっと続けていくのだ…
…
感想&雑記
さて今回は「ルバート」の考察だったがいかがだっただろうか。考察していてとてもおもしろかった。あくまで僕の解釈なので、解釈に違いがあるかもしれない。異論反論は大いに受け付ける。
あと宣伝なんですが、他にもヨルシカの曲の考察やってます。よければ見てってください!
〜ここからは単なる僕の感想〜
ルバート、めっちゃおもしろかった。底抜けに明るくて、一見バカそうな歌詞。だけど実際はそこに繊細な葛藤があるところが、ただ純粋に上手いなぁ、と。
思えばこのテーマってかなり僕自身にも当てはまっていると思う。
皆の価値観に合わせて、自分が昔好きだったものを忘れていく。僕は小学生低学年の頃、そこそこポケモンが好きだった。ぬいぐるみなんかも持っていたのだが、やはり学年が上がると「まだポケモンが好きなのは子供」みたいな圧力が確かにあった。友達との話でも話題に出さなくなってしまった。かつて持ち運んでいたぬいぐるみは、今では埃を被ってしまっている。思えば大人になるというのは、そういうことなのかもしれない。
成長するというのは、子供心を忘れることだ。
僕たちは人間だ。人間は社会的な生き物として、常にほかの人からの圧力に晒されている。その圧力によって協調が可能になったという点で、圧力は人が人であるために必要なものだ。だけど一方で、周りを気にしすぎることはよくない。それはニーチェが批判したように、僕たちが臆断の虜囚になるということだからだ。
トレンドに合わせて、回って回って回ってそして最後には自分がどっちを向いてるのかわかんなくなって。それは、社会という大きな流れのなかで生きるのだからしかたのないことだ。ただ自分の大事なものだけは、憶えていたい。
雑記2
そういやこの曲と「月に吠える」って何かと共通点が多いな、と。
ルバート「盗まれる」、月に吠える▶盗む。月を見かけた野犬。萩原朔太郎は「月は病犬にとって不吉の謎である。犬は、月の投げかける自らの影(=焦燥と無為に満ちた過去)に恐れて吠える」と言った。
私は私自身の陰鬱な影を、月夜の地上に釘づけにしてしまひたい。影が、永久に私のあとを追つて来ないやうに。
自身の過去を否定するという点で、ルバートと月に吠えるには共通点がある。月に吠えるは、満月を盗み出す、という結末で、ルバートの満月に届かないということと対照的ではあるが。
(以前書いた月に吠えるの考察があるので、興味が湧いたらぜひ見てってください!)
そんじゃ、今日はこんなところで。グッド・バイ!
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