もし万が一、読み違えていたなんてことがあったら、土下座しに行きます。
覚悟なら、無いこともない。
死の再定義
霊肉二元論の、身体VS精神という二項対立がまず前提にある。だけど筆者の考えがその二項対立に収まってないから、かなり難しい。
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現代医療では,死の定義が変更されて、脳死=精神の死=人間的な死とされた。合法的、かつ効率的な臓器提供のため、新鮮な「生きた死体」=ルール的には死んだけど肉体としては生きているもの、が必要となったからだ。
かつては肉体の死(瞳孔の開放・心拍の停止)=人間の死=魂の救済だった。それに比べて現代では、精神の死=人間の死=リサイクル部品としての身体の救済、というように身体と精神は反転した関係で捉えられている。
移植のため、脳死状態=人格が死んだ身体は、他人の生のためのリサイクル部品としてぜひとも活用したい。臓器の交換可能性を保証したい。そのためには、身体は誰のモノでもない、とされなければならない。その論理的正当化のための装置として、脳=身体の各器官を統括するもの(=身体よりも上位のもの)として、「脳こそが人間の本質である!」と勝手に決めてこじつけたのである。これが死の再定義である。物質的・超現実的な現代医療が、精神や魂といった霊肉二元論をわざわざ持ち出してまでこの主張を通そうとしているところに、死の再定義のいかがわしさがつきまとっている。
死の再定義。これは一見筋が通っているようだけど、ちょっとおかしい。たとえ身体を統括しているはずの脳が死んだとしても、脳死が身体だけが生きてる状態(だからリサイクルに適している)として存在する以上、「身体のみの生」(ほつれた生)も生きているとして考えられるんじゃないか。
つまり、脳死を人間の死として再定義することと、身体だけが生きつづけられることは、また別問題である。前者は、人による恣意的(自分勝手な)「定義」だからどうとでもなる。が、後者は技術レベルの話だからいかんともしがたい。私たちは、この技術の進歩に合わせて、死の意味についてまっすぐ向き合わなければいけないのに、そのことを霊肉二元論はひた隠しにしてしまっている。
人間の死というのは、かつては個人個人で完結するものであったはずだ。しかし今では臓器移植などによって、個人個人の生死が他の人の生死と結びつけられた、共同的なものになってしまった。脳死を死と認めよう、といった議論は、「最大多数の最大幸福」のような功利主義的な・公共的な性格を帯びている。ニンゲン一単位としての個人の同一性は、もはや自明ではない。
現代医療の立場から見ると、パーツを他の人のパーツと置き換えることができる身体は、器官ごとに分解可能・交換可能であり、可変的なものなのである。現代医療は、脳(=中枢)が身体(=末端)をまとめあげ、脳が身体に固有性(アイデンティティ)を付与する特異な存在なのだと考える。
だけどこれに真逆の考えをぶつけることもできる。脳が死んでも、身体が生きていることもあるのだから、脳=中枢でありその人の本質なのだという見方を覆して、身体こそがその人の生の本質であり、各器官はそもそも非人格的なパーツじゃない、むしろそれぞれが別々に生きていて、脳があとからそれを調節してまとめあげている、と考えることだってできる。こっちは身体こそがその人の本質、という見方である。
現段階では脳は移植をすることはできないが、もしできるようになったとしたら、脳だって他の臓器と同じように扱えるようになるはずだ。現代医療の物質的・超現実的な見方をほんとうに極限まで押し進めるならば、中枢VS末端=脳VS器官=精神VS身体という対立は意味を為さなくなるのではないか(精神を特別視するのがおかしい)。全部は身体の集まり、ということになる。人の本質は精神ではなく、いろんな器官が一つの身体に集まった、この身体性こそが本質である。
臓器移植という昨今の技術革新は、臓器を組み替えることによって=私が私で無くなることによって、新しくまた「私」の同一性が生まれ、人が組織されなおすものだとして、これまでの人間観生命観すらも変えてしまった。
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この文章、第五章のなかでトップレベルに難しい。だいぶ意訳が入ってしまった。

完全に私オリジナルな解釈になってしまうのだが、多分文章中で述べられている、「身体性こそが人間」という筆者の主張は上の図を想定している。身体の各器官がそれぞれに生きていて、そのネットワーク全体としての私。私の脳・私の精神というのは、このネットワークの糸がたくさん絡まり合ってできた一つの結節点にすぎない、という考え。
一方現代医療はというと、下の図だ。「精神がすべてをまとめあげるのだから、精神こそが人間の核である」、と。精神に超越的・特権的立場を認めているのだから、精神の死=人間の死というのは、このモデルだと思う。
こういう、身体と精神のどっちにアイデンティティを認めるか、という問題は「スワンプマン」っぽいなと思った(あるいはバイオハザード)。「もし体の部品が全部コピーされたとして、(しかも記憶などは全部保持されているとして)、それがほんとうに元の人と同じなのか?」という思考実験だ。もっと言えば「君の名は」もそんな感じ。特に小説版だと、「記憶とは脳のシナプスに宿るのかそれとも身体に宿るのか」みたいな自問自答のセリフがあった気がする(うろ覚え)。
コモリン峠
すごくわかりやすい文章なので、解説する必要無し。
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社会学者である筆者がインドのコモリン峠というところに行った時の出来事。
ある朝、海辺の岩場を渡っていくと、遠くから現地の人が「そこには行くな」という、警告の金切り声を上げ始めた。筆者は「そこに、異教徒が入ってはいけない<聖域>があり、それを守ろうとしているんだな」と理解してそこで立ち止まった。しかし実際は、そこは危険だから立ち寄るな、という優しさに由来していたのである。それは意味連関を持たない、単なる思い出のカケラとしてしばらく忘れられていた。
15年後。スマトラ沖大地震が起きたときに、コモリン峠では、現地人が危険な出撃のすえに、観光客500人以上を救った、という記事を見つける。純粋で屈託のない少年たちが、今では立派な大人になって人助けをした。「なんの関係もない人」を必死で救い出そうとする少年たちの魂、<きれいな魂>は、15年後でも引き継がれていた。
その<きれいな魂>は、やはり一つの<聖域>を守る声であった。それはかつて筆者が考えていたような、他者を排除するための<聖域>ではなく、相手をおもいやる純な心、<きれいな魂>の生きる世界であり、自ら拒まない相手に手を差し伸べ包括しようとする、そんな優しい<聖域>なのだ。
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(ほんとうに試験とは関係ないんだけど、この著者の見田宗介さんと、真木悠介さんが実は同一人物だったっての初めて知った。『現代社会の存立構造』とかで調べるといつも別々の著者が出てきて混乱してたけど、そういうことだったのかって納得。この方の『自我の起源』って本、なかなかおもしろいよ)

幸福の青い鳥 -解釈学・系譜学・考古学ー
解釈学と系譜学と考古学の違いが核となる。それぞれ、過去に対する捉え方が違う。
自分では結構分かったつもりだけど、解釈学と系譜学の違いの説明がかなり難しいので、要約に移る前にちょっとした例をあげる。
①フロイトはこう考えた。人の潜在意識には自動的なフィルタリングサービスが備わっていて、それが私にとって快・不快を意識の外で分別している。そこで「通っていいよ」と許可された事実だけを、私たちは見て生きている。私の記憶というのは勝手に偏った見方になっていて、しかも私たちはそれを意識することができないのである。
②全く違うところから具体例をあげる。解釈学では「歴史」を正しいと信じるかもしれない。だけど今日一般に知られている通り、「歴史」とはすなわち「勝者の歴史」である。だから「歴史」は、ほんとうの過去とのズレを含んでいて、その言及不可能な本当の過去こそが今の「歴史」の形を決めていたのではないか、と考えるのが系譜学である。
ざっくり言ってしまうと、因果関係が直線的につながっていると信じるのが解釈学、因果関係の「外側」を想定するのが系譜学だ。
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解釈学 | 系譜学 |
鳥はもともと青かった | 鳥は青かった、と信じ込んでいる |
解釈=記憶=実際の過去 | 解釈=記憶≠実際の過去 |
主観的 | 客観的 |
事実と解釈は一致していると信じる態度が解釈学である。「昔から鳥は青かったじゃないか」という記憶=解釈こそが、真実、すなわち実際にあった正しい過去だったんだと素朴に信じる態度が解釈学である。キーワードは「透明性」。現在と過去の因果が直線的につながっているのが解釈学であり、歴史が改ざんされたなどとは考えない。解釈学では歴史や記憶は自明の前提であって、それをベースに物事を見るのである。その物事の見方が染みついている彼ら彼女らにとっては、過去からの重みをもって現在の価値観を支えて、「今」に意味を与えてくれているその記憶が、フィクションだとは考えようとしない。もし価値観(解釈)が変わったとしても、それは記憶が変わったときであって、記憶や歴史が絶対的に正しいという前提はいささかも崩れるものではない。
これをイメージするのに具体例をひこう。
ここに敬虔なキリスト教徒がいたとしよう。彼は純粋に神の存在を信じている。そして、神が常に私を見ている、死後には天国と地獄があるということを信じている。当の本人にとっては、神やイエス=キリストは確かに実在したと思われるものであって、それが彼の「今」の思考を支配している。もし、彼の行動原理が具体的に変わることがあるとしても、それは聖書の読み違いに気づいたときだったり、正当教義が変わったときに限るだろう。彼にとってその世界線の歴史は「透明」な一つの真実である。騙されているとさえ考えない。そして彼の探求の目標は、神様についてもっと知りたいと、神学へと向けられる。
(侮辱だ!と思った方、ごめんなさい。あなたの解釈学的幸せを壊してしまって)
一方、系譜学においては、実際にあった過去と自己解釈は一致しない。そこでは歴史が「透明」で、自明の前提であるばかりか、むしろ手垢に塗れて改変されまくった・捻じれた時間かもしれない、と意識される。「鳥はもともと青かった」・「私は幸せな少年時代を送った」という記憶が成立しているとき、本当はそうじゃなかったという事実があって、無意識にそこから目を背けてしまったのかもしれない。そう疑うことだってできるはずだ。(実際、精神分析はそういったアプローチをとる)。記憶を改変した、無意識的で言及不可能な外部の要因を探ろう、という態度が系譜学である。そしてそれを疑うと言うことは、その記憶によって成立している今の「私」をも疑い、不安定にしてしまうということだ。
歴史は一見透明なように見えるが、実は光が屈折して進んでそう見えるだけの、虚像なのかもしれない。繰り返す。記憶の(意識されない)外部を想定するのが、系譜学である。
これも具体例で置き換えてみよう。
さっきのキリスト教徒は、ある日、異教徒と出会った。「君は神を存在していると思っているけど、僕のところには別のたくさんの神様がいる。いったい、いつから神様がいたということになったんだい?」。ここで彼、ハッと気づく。神様はフィクションかもしれない。聖書には書かれなかった「外部」の事実こそ、実は記憶内容=聖書に決定的な影響を及ぼしていたのかもしれない。(そもそもパウロは実際にキリストにあったことが無いくせに、いったいどうやって彼が本物の神の子であると知ったのだろう。)
ここで、複合的時間軸が成立する。「「キリストは神の子として存在した(解釈)」が事実がであると、後から決められた」、という事実と解釈がミックスされた見方が成立する。だけどもちろん、この二つは乖離していて共存できない。聖書のキリストは存在した/後から誇張されつくりあげられた、という二つの意見は食い違う。
つまり系譜学と解釈学は両立しえない。解釈学は素朴に解釈と事実の一致を信じているし、系譜学はそれを疑うからだ。
しかし、系譜学は論理的必然の帰結として、かならず解釈学に負けてしまう。なぜなら系譜学の「解釈≠事実?」という疑いが、それまでの解釈に勝った瞬間、今度はその系譜学的な「答え」が固定化され、一つの解釈になってしまうからだ。(抽象的でわかりにくかったかもしれない)。さっきの例になぞらえて言うなら、「『神がいた』というのはただの解釈だったのかもしれない」、という疑いが「神は確かに存在した」という解釈に打ち勝ったとき、今度は逆に「神は存在しなかった」という新しい解釈が生まれるだけだからだ。
解釈学と系譜学の統合は、新しく納得のいく自己解釈によって塗り替えられる。系譜学は問い続けることによってのみ存続できる。一つの結論に安住するなら、それは、解釈学だ。
解釈学では、過去(≒記憶)は、現在の自己解釈のためだけに必要とされる。それこそが、手つかずな過去=純粋な事実としての過去を、解釈の手垢で汚し、殺すことにつながっているのではないか。過去を現在との関係抜きに考えることはできないのか。
そこで登場するのが考古学である。考古学では、現在と過去のつながりをいっさい考えない。この点で、解釈学・系譜学のどちらとも似つかない、異質なのである。そもそも鳥がほんとうに青かったかどうか、青いという記憶と事実が一致していたかどうかなんてものは、考古学にとっては関係が無い。そもそも当時にはそんな観点すらなかった。鳥が青かったかどうかを考えるのは、今の私の解釈によって、過去を汚すことである。過去は忘れられること、現在とのつながりが絶たれることによってはじめて、純粋な過去として保存されるのであり、だから考古学とは、現在の視点から過去を見るけど、決して解釈してはならない、という二律背反を背負っているものなのである。
さっきの例で行くなら、考古学では、「キリストが本当に神の子だったか?」「全人類の原罪を贖う存在だったか?」と問うのは意味がない、ということになるんじゃないだろうか。そもそも当時のキリストは、キリスト教的規範の外側にいた。単に彼は存在して、シナイ半島を歩き回り、行動した。それを今の視点から理解しようとするところに無理がある。過去の事実を直視しようとするけど、決して現在の解釈を持ち込まないような、その不可能さを乗り越えようとする運動が、考古学では無いのか。今の視点、あるいは今・こことのつながりを持ち込むことが、彼らを私たちの想像力で飼い殺すこと、過去の過去性を殺そうという意志に変わってしまうのである。
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いやー、むずかしい。解釈学とかよくわからんし。自分で書いていて申し訳ないのだが、だんだん何書いてるかわからなくなってきた…。具体例のくだり、蛇足だったかもしれないと今更反省。

「過去」の自明の透明性を疑うのが系譜学、信じるのが解釈学、
視線=現在と過去のつながりを断ち切ろうとするのが考古学。
こう、整理できるんじゃないか。
現代思想的に見るなら、ジャック・デリダのパロール・エクリチュールの概念が一番近い気がする。(興味があったら調べてみてね)。このパロール・エクリチュールはあくまで比喩なのだが、パロール=話し言葉は、相手とフェイストゥーフェイスで話す分だけ、より直接的で、意味の透明性が高くて信頼がおける。一般的にはこう考えられてるし、実際、西洋哲学の伝統でもこちらのほうに重きが置かれていた。一方、エクリチュール=書き言葉は、一度文字と言う媒体を挟む分だけ、意味の読み違いが生じやすい。間接的で迂遠で信ぴょう性の低いものとして長らく疎まれてきた。(だから小中学校でLINEの使い方講座やSNSの使い方講座が開かれるのだ)。
そして彼は、パロールも実はエクリチュール的である、エクリチュールこそがコミュニケーションの真の姿だ!と主張した。話し言葉だって、一度音声を介しているのだから聞き間違いが生じえる。直接性・透明性なんてものは幻想だ。そもそも「本当の意味」みたいな、明確な意味というものを中心に置いて考えるパロールを批判した。(今回で言うところの「絶対的歴史観」)。そして彼は、その固定的な中心を崩そうとした。世の中全部誤読塗れだし、透明度100%のコミュニケーションなんてものは存在しないし、逆にエクリチュールによって幅広い「誤読」・解釈の自由性が担保されるのだと……。
(ちなみにジャック・デリダはポスト構造主義の立役者。知らなくてもいいことだけど。)
棗椰子の木陰の文学
ジャーナリズム・記号化と、文学・具体性という二項対立を意識。
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戦争の極限状況下において、今・ここの危機を文学によって伝えるということは難しい。だからペンをカメラに持ち替えて、ジャーナリズムへと転身する人もいる。
現在、メディアによって伝えられる戦争の状況というのは、極端に記号化された世界である。「破壊された家」を前に「パレスチナ人」が「悲嘆」に暮れている。『この状況をどうにかしなきゃいけない戦争を辞めさせなきゃいけない』という、メッセージを伝えるため”だけ”につくりあげられた映像の世界なのだ。そこでは、現地人の実際の悲しみ・辛さというのは、「戦争ってよくないよね」というありふれたメッセージを伝えるためだけの、二次的な重要性しか帯びていない。いわば抽象的なメッセージによって、個別具体的な人間の悲しみの一つ一つを置き換えることによって、現実はないがしろにされてしまっているのである。
反戦や平和がどれだけ大事であろうとも、これでは心に響かない。
実際には、イラク出身のマジードさんの話のように、イラクの人たちにもそれぞれの生活があって、ナツメヤシに囲まれた美しい街があって、具体的な生活の諸相があったはずだ。「被害者」として十把一絡げにしてしまう前に、そこにいた人たちがどのような生を営んできたのか、何を愛し、何をいつくしみ、何を破壊したのかされたのか、といったディティールを描くことこそが、他者への想像力を掻き立て、共感を呼び、現実を変革するのに必要なのではないか。それこそが文学の役割なのではないか。「アフリカで子供が飢えているときに文学に何ができるか」という問いにつながるのではないか。だからこそ今、文学が必要とされているのだ。
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テレビニュース・メディア=個別具体的な生活の抽象化・記号化⇒ステレオタイプ化によって、具体的な想像力を欠けさせてしまう⇒いくら平和を唱えようとも、抽象的な「建て前」に過ぎない。
文学=具体的な人間を描く⇒共感を呼び起こす⇒現実を変革できる
この対比を理解できたかどうか。そんなに難しい文章ではないはず。
反戦を伝えるなら、戦争の状況におかれてしまった人たちの「顔」を描くことが大事だという思想。このあとの「ヒロシマ」にも通じるところがある。
ヒロシマ 七〇年後
これも平和の二つの在り方の対比が読み取れれば簡単なはず。だからだいぶざっくりとまとめる。
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筆者である「私」は、原爆供養塔を長年清掃し、身元不明の遺骨を届けて回っていた佐伯さんと老人保護施設で再会する。佐伯さんは、戦後もずっと原爆の被害に心を痛めながら、ひっそりと行動してきた。
人々が歩き回る平和記念公園の地下にたくさんの遺骨が埋まっているように、戦後の平和な生活にはずっと戦争のいたましい記憶がつきまとっている。それを憶えたまま、平和を願おうという態度は、今の情勢と対照的だ。
現在、戦争を思い起こさせるものはどんどん忘れさられていってる。というか、意図的に忘れるように仕向けられている。原爆供養塔・ケロイド人形・地下室・被曝建造物。死者の声を届けるものはどんどんと姿を消していき、「平和」を冠するものへと置き換えられていく。殺された人たち・犠牲になった人たちの具体的ないたみを「神聖さ」のもとに遠ざけること、忘れることが本当に平和なのか。そうではないはずだ。
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「ハトを飛ばし平和を唱えることが、そんなに高尚か。」
友情の点呼に答える声
イデオロギー/友情の二項対立で捉えるべし。
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互いに互いを呼びかけ、その声に応えるところに、社会は維持される。すべてを奪われた人たちの声は、そのぶんより一層痛切で、重みを帯びた、連帯=社会を再びつくりあげようという強い意思になる。そのような応答、呼びかけ合いこそが友情なのである。それは、かつては気恥ずかしいものなどでは無かった。そのような友情・具体的な共感こそが、異質な人々を対等なものとして結び付け、自治社会をつくり、人々を真に社会的存在に育て上げるものであった。昔はこれが常識だったから、感情教育も続けられてきたのだ。(『友情こそが社会の最も聖なる絆である』、古代ローマから続く「友情の政治学」etc)
しかし現在では、社会のために必要とされてきた友情という概念は、その目的であったはずの「社会」のせいで、廃れてきてしまっている。この「社会」とは、帝国主義・民族国家(民族主義)・宗教・共産主義・資本主義などのイデオロギーがはびこる、現代の世の中である。
たとえ共産主義と資本主義がどれだけ異なっていようと、私たちが感じることのできる感情の幅を狭め、自分とは違う信条をもつ人との連帯を不可能にするという点で、このような思想はどれも同じである。抽象的なスローガンのもとに、他者を排除し、相互不信と嫌悪が生み出されている世の中。「友情」観念の退廃は、この現状をいちじるしく表すものである。
私たちは、苛烈な世の中の今だからこそ、友情によって変えていくべきだ。
イデオロギーが理論を大事にしすぎるあまり、「基本的な感情」をどんどん切り詰めてきたのなら、そのイデオロギーにまた別の「~主義」を持ち出して対抗するのは無意味である。真に立ち向かうためには、神・貨幣・単一の国家・プロレタリアートといった抽象的価値を担ぎ出してはならない。目の前にいる私とあなたの直接的・具体的な関係性だけに根拠づけられた友情を大事にする、そんなアナーキーな(=非・イデオロギー的な)思想で立ち向かわなければならない。そうすることで、私たちを覆う苛酷さ、生きにくさを取り除くことができる。
その思想こそがすなわち、『国を裏切る勇気』や『好意の蘇生』・『好意の交換』や『盟友』といった友情思想なのである。ベトナムにおけるアメリカ軍や、スペインにおけるイギリス兵の話は、敵対する人々のあいだの連帯を可能にするのは友情しか無いということを端的に示している。
結局、人にとって耐えがたいのは、厳密な理論が無いことではなく、正直な感情が通らないことなのだ。理論によって感情が切り詰められて行ってしまうのなら、そんな主義思想は捨ててしまえ。友情という小さな絆は、いろんな人々が混ざり合い、共存し、信頼や正直さが価値をもつ社会へと私たちを導く。
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最後の三つの文章、すごく似ているよね。具体的な他者の想像、共感っていうテーマからして。
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もう疲れた。明日も、頑張ろ。
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